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05 「ねぇ、教えて」


「今日からみぃちゃんこないから、帰ったら悠大一人でお留守番しててね。もう帰り道覚えたよね? 学童には5時に帰してもらうように電話しておくから大丈夫よ」

 朝、いつものようにバタバタとしながら母が悠大にそう告げた。悠大と陽介は、納豆をかき混ぜているポーズで止まっている。


「みぃちゃん、来ない?」

 納豆が箸から一粒、ぽとりとテーブルに落ちた。


「そう。帰ってきたらちゃんと鍵閉めるのよ。誰が来ても開けなくていいから」

「なん、なんで? みぃちゃん昨日、だって、バイバイって」

 狼狽える悠大に、母は苦笑をして頭を撫でた。


「そう、みぃちゃん、言えなかったのね。あんたが泣くってわかってたから」

 よしよし、お姉ちゃんを許してあげてね。そう言って母が悠大を抱きしめた。悠大はまだ何もわからないまま、なんで、なんで? と母の腕の中で繰り返してる。


 陽介は舌打ちしたい気分だった。昨日、実里は急いでいたわけではない。悠大に「また明日」と言われたら、返す言葉がなかったから、言わせないようにドアを閉めたのだ。


 あぁそうか。実里はこんなに簡単に、俺も、悠大も。切り捨てられるのか。


 違うとわかっているのに、陽介の心に憤りが渦を巻く。

 だけど一言。たった一言。今日で終わりなのだと。何故告げる事が出来なかったのだろう。悠大に言えなくても、せめて自分には言うべきだったはずだと陽介は腹を立てる。


 それが、礼儀のはずだ。それが、義理のはずだ。


 それとも、やはり自分と実里の距離は、少しも縮まっていなかったのだろうか。


 盤はいつでも実里が持っていた。ひっくり返すのも、駒を進めるのも、全て実里の手の中だった。切羽詰まっていたこちらに拒否権はなく、実里の意志一つで、あの時間はいつだって途切れてしまうものだったのだ。


「陽介」

 母の声に、陽介がびくりと体を震わせた。納豆のネバはすっかりと溶けてしまっていて、陽介は再び手を動かした。


「部長になったんだって? すごいじゃない。大丈夫、もう部活休めなんて言わないから。ごめんね、あんたがそんなに頑張ってるの、お母さん知らなかった」


 なぜその事を知っているのだろうか。陽介はいつも通りにこりと笑みを浮かべて「ありがとう」と答えた。





 その日、部活を終えた陽介は、幾許かの期待を抱えて玄関のドアを開けた。

「ただいま」

 玄関のドアを開けて、驚いた。悠大が玄関マットの上にしゃがみ込み、ドアを見つめていたのだ。


「……お兄ちゃん」

 みぃちゃんじゃ、なかった。


 ぽろり、と悠大の目から涙がこぼれる。陽介は部活バッグを床に置くと、悠大をぎゅっと抱きしめた。





 それから三十分ほどして、母が帰ってきた。

「これからはこのぐらいに帰れるように頑張るから」

 早く帰ってきた母に、悠大は少し気力を取り戻したようだ。淋しそうな顔を浮かべながらも、母のあとをついて回っている。


 陽介は風呂から上がり、リビングへ向かった。


 ――ご飯、温まってるよ。


 振り向いて、笑顔を浮かべる実里がいない。

 陽介は、ぐしゃぐしゃぐしゃと頭をタオルで拭き上げた。





 自室で悶々と過ごすのにも飽きたころ、陽介はコーヒーでも飲もうと台所に向かった。

 リビングには明々と明かりがついている。眠れないという悠大を寝かしつけていた母が、ダイニングテーブルに座って読み物をしていたのだ。


 母は陽介が来たことに気付くと、顔を上げて眼鏡を外す。拙い笑みを浮かべて、「コーヒー?」と聞いた。

「そう」

「私が淹れるわ。そこ座ってて」

 何か母らしいことをしたかったのだろう。母の気持ちを優先して、陽介は甘えた。


「なに? これ」

 陽介はコーヒーを淹れる母の背に向かってそう言った。


「みぃちゃんノートよ」

「なにそれ」

 母がダイニングテーブルの上に開きっぱなしにしていたノートを、陽介が手に取る。


「あんた、一年もお世話になっておいて知らなかったの?」

 一ページに付き三日分。業務連絡のように、今日の晩御飯のメニューと、実里の一言が添えられていた。

 悠大の体調や機嫌が、土日を省いて、一日も休むことなく綴られていた。

 そして最後に一言二言。


 ――陽介君は今日も遅くまで部活を頑張っていました。

 ――三年生が引退後、部長に選ばれたと、風の噂で聞きました。


 陽介は書かれている文字を、そっと指でなぞった。


「みぃちゃんには本当。感謝しかないわ。不甲斐ないお母さんが悪いんだけどさ。お母さん、全然あんた達と向き合えてなかったんだなぁ……って。このノート見る度に、すんごい思い知らされた。あんた、私にこんなこと、もう話してくれなくなってたもんね……自業自得かぁ。最後の方は、喧嘩ばっかり見せちゃってたしね」


 自嘲気味に笑う母に、陽介はいつもの笑みを返せなかった。


 子供のころは仲がいい家族だった。夫婦の間に何があったかはわからないが、陽介が不仲を感じ取るようになったころには、もう修復は不可能になっていた。母は常に機嫌が悪く、父はあまり家に寄り付かなくなっていた。十年ぶりの育児に、夫の不倫。職場結婚だったため、職場でのストレスもあったのだろう。 あの頃の母は、まるで悪鬼のようにやつれていた。

 離婚したことで気が晴れたのか、母も少し前向きになったようで、たまに笑顔が見られた。実里が家に来るようになり、更に余裕が出来たのだろう。また以前のように明るい母に戻っていった。


 離婚して一年。

 離婚直後は、母が父なんて最初からそこにいなかったように振る舞うことが不思議でたまらなかった。陽介と悠大には確かに大きな穴がぽっかりと開いていたのに、母はそれを全く見えていないように振る舞った。それが、不快で堪らなかった。陽介にとっては、父も母も、どちらも大事な両親に違いなかったからだ。


 だから陽介は、自分の穴を他人で、しかも金で埋めようとした母を理解できなかった。理解しようとしなかった。鋼の笑顔で壁を作り、母が話しかけようとしても忙しいと会話を打ち切った。


 それが弱かった母の、精いっぱいだったのだと、今なら少しはわかる。


 陽介が小耳にはさんだ情報では、父は職場の女性に手を出したらしい。

 父は遠く離れた県外の支所へと飛ばされ、その尻拭いを母がしていた。限界まで頑張って頑張って、頑張れなくなって。陽介に部活の早退を頼んだのだ。母は陽介の部活を守るため、必死に戦ってくれていた。けれど、母一人では守り切れなかった。

 そこに小舟が自ら渡ってきて――母は、どれほど安堵しただろうか。


「みぃちゃんに、家族にしてもらってたのねぇ」

 母はしみじみとそう言うと、陽介にコーヒーを差し出した。


「あんたも、将来お嫁さん連れてくるなら、あんな子にしなさいね」

 心底そう思う。陽介はコーヒーを一口飲んだ。


「ま、一年一緒にいてなーんにも出来なかったあんたに、みぃちゃんは勿体ないだろうけど」

 またしても、心底そう思った。


「母さんは聞いてたの? みぃが昨日で終わりって」

「当たり前じゃない」

「なんで俺、教えてもらえなかったんだろ」

 母の泣き言に感化され、陽介はポツリと呟いた。久しぶりに吐き出した弱音に、陽介は慌てて口を噤む。

 しかし母は既にその言葉を聞いていた。


「そっかみぃちゃん、言えなかったのか」

 なーんだ、まだ見込みあるんじゃない。と母がにやりと笑った。


「なんでか、わかるって?」

 尋ねる息子に、母は老婆心でこう告げた。


「そりゃあんたに、『お疲れ様』って。言われたくなかったからでしょ」




***




 翌日、陽介は母に手を差し出した。

「トドの鍵、ちょうだい」

 ストッキングを穿いていた母は立ち上がって鍵を取り出すと、陽介の手にしっかりと握らせた。


「男見せろよ、陽介!」


 陽介は、ものすごく微妙な顔でそれを受け取った。





「みぃ」

 聞き慣れてしまった声に、実里はピクリと動きを止めた。


 教室の中は、先ほどまでいつもどおりに騒がしかった。昨日見たテレビの話をする者、テストの話をする者、携帯アプリの話をする者――騒がしい人たちの中でまた、実里も佐保子と会話に花を咲かせていた。


 そんな時、よく透る声が教室に響いた。特別大声だったわけではない。しかし、部活で鍛えたその声は、騒がしい教室が一瞬で静まり返るような、存在感があった。


 例に漏れず、実里と佐保子も会話を止めた。「え、あれって……」「うそ、バレー部の?」「みぃ?」「みぃって誰?」再び騒がしくなった教室をくるりと見渡し、声の発生源を探る。


 教室のドアから、見慣れた人が顔を出していた。


「みぃ」


 再度、催促するように陽介が呼んだ。実里は慌てて立ち上がる。

 小走りでドアに向かえば、教室の中からも、外からも、得体のしれない悲鳴が上がる。実里はなるべくその全てを聞かないように気を付けながら、陽介の前に立った。


「どうしたの」

「今日、来れる?」

「うん、いいけど……悠ちゃん、なんかあったの?」

 陽介が実里に学校で声をかけてくることなど、ついぞなかった。実里は何か緊急事態でも起きたのかと、顔を青くして陽介を見上げた。


 陽介は実里の返事にいい顔をしなかった。


が、頼んでるんだけど」

「え? うん」

 それは、もちろんその通りですと実里は頷いた。陽介は、出来の悪い生徒を見る教師のような目で実里を見下ろす。

 実里は居心地が悪くなって、顔を伏せた。目だけで陽介を見上げれば、はぁと大きなため息をつかれる。

 不機嫌な時に笑わないなんて、珍しいな。実里がそう思っていると、陽介はポケットから何かを取り出した。馴染んだそれを見て、実里はつい手を差し出した。


「待っててくれる?」

 実里の手にトドのキーホルダーを載せる陽介に、実里がしっかり頷く。

「承知した」

 その言葉に頷いた陽介は、念を押すように実里の目を見ながら口を開いた。


「じゃあ、また夜にね」





「ちょちょちょちょちょちょ、ちょっと、実里さん?! 今のなに?!」


 陽介と別れ自席に戻ると、佐保子が目玉がとびれるんじゃないかと思うほど目を見開いて実里を待ち構えていた。実里はその様子に驚いて身を仰け反る。しかし、驚いていたのは佐保子だけではなかった。教室内の誰もが、興味津々で実里を見つめている。


「付き合ってたのって、あの辻浦君?! しかも、鍵渡す仲?! 家で待ってろ?!」

 佐保子の驚きように、実里の方が驚いた。陽介が校内でも人気のある男子だとは知っていたが、こんなに注目されているとは全く知らなかったからだ。


「あ、違う違う、それは違って――」

「なにが?! だって、ようちゃん、って呼んでたじゃん!」

 佐保子の言葉に、クラス中がうんうんと頷いた。


「ようちゃん……? あ、それも違う! ようちゃん、じゃなくて、ゆうちゃん! 辻浦君の兄弟!」

「でも家行くんでしょ?!」

「そ、それはだから……」

 実里は辻浦家の事情を話すことを躊躇した。佐保子だけにならともかく、今はクラス中が聞き耳を立てている。実里は混乱した頭で、必死に何とか口を開いた。


「さっき言った悠ちゃんと仲が良くて――そう、プロポーズされるぐらい!」


 どうだ、これで陽介との疑念は晴れただろうと手を打った実里に、佐保子が悲鳴を上げる。


「プロポーズ?!」


 間違った。実里は自身の過ちに気付いた。


「家族公認なの!?」

「ああああ……」

 どうしていいかわからずに、実里は頭を抱えて蹲った。


「ぷ、プロポーズって、わかってる!? ああああんたまだ、高校生だよ!? さすがに早すぎない?!」

「わかってる、わかってるぅう、ごめん、本当ごめん佐保ちゃん。私が、私が悪かった」

「ゆうちゃん、だっけ。いくつなの、その男! いたいけな女子高生に!!」

 いくら辻浦の兄と言えど、犯罪だろ! と鼻息荒く詰め寄っていた佐保子に、実里は目を逸らす。


「――ろ」

「ろ?!」


 六十代?! と、クラス中の人間が目を見開いた。その沈黙を甘んじて受け入れながら、実里は続けた。


「……六歳……」


 しっかり、五秒は沈黙が続いた。

 そのあと、まるで大砲が放たれたかのような大笑いが、一組で巻き起こった。



 その頃、一組の廊下にて。

 壁に寄りかかって震えている人間がいた。移動教室の途中に変人を見かけた明利は、幼馴染に声をかける。

「なにやってんの、陽介」

「いやごめん。笑ってただけ」

 自分でも、まさかここまで骨が抜かれてるとは思ってなかった。と続けた陽介の言葉に、明利は首を捻った。





 ――待っててくれる?


 陽介にそうは言われたものの、どうせ行くのならと、実里は学童へと向かった。

 出しゃばりすぎを心配したが、学童の扉を開けた瞬間に悠大が泣きながら引っ付いてきたので杞憂だったことに安堵する。実里は悠大の頭を撫でながら、「一緒に帰ろう」と告げた。


 いつものように手を繋ぎ、家路を辿る。

 悠大はいつも以上にはしゃいでいて、昨日は何をしたとか、今日は何をしたとか。実里に沢山のことを話してくれた。しばらくして家に付く頃になると悠大の足が止まり、「昨日は淋しかった」と呟いた。


 実里は、自分の行動がやはり軽率だったと後悔した。

 悠大は、これからもずっと実里がこうして迎えに来るものだと思っている。けれど、違うのだ。実里は今日、陽介に頼まれたから鍵を持っているだけであって、これからもこういうわけにはいかない。


 それに、実里がずっと手を繋いでいることは、悠大の視野を狭める行為になるかもしれない。


 実里の指を握る、小さな手は酷く冷たかった。





 実里は勝手をしていいのかわからず、陽介の母にメールをした。すると、ゆっくりしていてという返信が届いたので、実里は甘えて悠大とゆっくり話をしていた。

 七時半。いつもの時間に陽介が帰ってきた。何かあるのかと身構えたが、いつも通り「ただいま」と言って浴室へと向かう。風呂に入っていなかった悠大が「一緒に入る!」と廊下で服を脱ぎ始めた。

「みぃも一緒に入る?」

 脱衣所のドアから顔を覗かす陽介に「ふへっ」と意味不明な笑みを零して、実里はそそくさとリビングに退散した。


 陽介たちが風呂からあがるころ、上機嫌の陽介母が帰ってきた。手には大きな紙袋が握られている。


「なにそれ」

 髪の毛からぽたぽたと雫を垂らしながら、陽介が母の持って帰って来た紙袋を覗き込んだ。その頃実里は、走り回る悠大にパンツを履かせ、取り押さえて髪を乾かしていた。


「ふふーん、“春の山”の特上弁当よ~」

 桐の箱に入った弁当は二重になっている。陽介は「うわぁ」とドン引いた。


「これ一個、いくらだったの」

「子供がお金のことなんか気にしないの。ずっと頑張ってくれたみぃちゃんへのご褒美と、あんたへの激励弁当よ」

 その言葉を聞いた実里が、悠大にパジャマのボタンをとめさせながら顔を上げた。


「激励? 部活? 試合があるの?」

「残念ながら春は負けたし、夏は夏休み明け」

 そっかごめん、と言う実里を尻目に、陽介は母ににこりと微笑んだ。


「女って年取るとお節介ばっかり焼きたくなって面倒くさい、って、母さん昔ばあちゃんに言ってたよな」

「あーらいいのよ。お母さんを敵に回したかったら、どうぞ?」


 バチバチバチ、と散る火花を見せないように、実里は悠大の目を両手で覆った。





 冷めても美味しいおかずばかりが詰め込まれていた純和食の弁当を綺麗に平らげると、実里は「ごちそうさまでした」と手を合わせた。

 食事の間、ずっと陽介の母は実里に感謝の言葉を紡いだし、陽介はそれを聞きながら愛想よく笑っていた。悠大はどれだけ実里と仲良くなったのかを話して聞かせ、将来結婚するのだと息巻いて皆を笑わせた。


 一日ぶりの実里にテンションが上がっていたのか、悠大はご飯を食べながら船をこいでいる。弁当はほとんど減っていない。陽介の母がほぼ夢の中に旅立った悠大を抱き上げ、寝かしつけに向かった。

 ウィンクを飛ばす母ににこりと微笑む陽介を見て、実里は唇をもごもごさせながら立ち上がった。


「じゃあ、私もそろそろお暇を……」

「みぃはもうちょっとここにいて」

 まさか引き止められると思っていなかった実里は、驚いて陽介を見た。しかし思えば今日実里がこうしてここにいるのは、陽介に呼び出されたからに他ならなかった。


 もしかして。いや、まさかな。実里は胸の内に浮かび上がってきた甘い期待を切り捨てた。


 陽介がテーブルの上のお弁当をシンクへ持っていく。食べきれなかった分を冷蔵庫に詰めるのを実里も手伝った。一息つくと、陽介が実里を振り返る。


「コーヒーでいい?」

「あ、甘いのがいい」

「わかった」

 落ち着かない実里は、そわそわと体を揺する。

「手伝おうか?」

「いつもしてくれてた人が何言ってんの。座ってて」

 陽介の言葉にダイニングチェアに腰を落とす。が、やはり落ち着かない。


「あ、牛乳無くなった」

「明日三本来る手配してるから」

「そ。ありがと」

 振り返り、柔らかく微笑む陽介の顔を見ていられなくて、実里は目を泳がせた。


 いつもとは違う空気を、実里は敏感に感じ取っていた。悠大がいないし、何よりも今日はお小遣いが発生するおさんどん見習いとしてここにいるのではない。実里がここにいる理由は、ただひとつ。陽介に呼び出されたから、それだけだった。


 最後の牛乳を使ったのだろう。たっぷりミルクの注がれた甘いカフェオレを陽介に差し出された。実里は両手でマグカップを受け取る。 

 陽介は地面に座ると、実里が座っているダイニングチェアの背もたれに寄りかかった。


「やめるって聞いたんだけど、ほんと?」


 陽介の言葉に、実里の心が跳ねる。


「最初からね、長くても二年の夏までとは言われてたんだ」

「受験もあるしね」

 あっさりとした返事をした陽介が、実里のものとは比べ物にならない黒いコーヒーを胃に流した。


 なんだ、引きとめてくれるわけじゃ、ないのか。

 わかりきっていたことに泣きたくなくて、実里はカフェオレを口に含んだ。


「心配しないでいいよ。みぃには本当によくしてもらったし、これからはまた、うちで頑張る。今までありがとう」

「……うん」

「なにその声」


 実里はじっとカフェオレを見つめた。甘いベージュには、小さな泡が浮かんでいる。

 このカフェオレのように、甘えてみてもいいのだろうか。実里はそっとマグカップに唇を付けた。


「ちょこっと淋しかったから」

「なに。まだこんなお荷物家族に付き合ってくれるって?」


 笑う陽介の動きで、背もたれから振動が伝わる。


「もし、迷惑なら……」

「迷惑なら今、呼んでない」

 陽介の強い断定に、実里は後ろを振り返ろうと背もたれに手をかけた。


「辻浦く――」

「陽ちゃん」


 実里の動きが止まる。


「陽介、でもいいけど」


 実里は慌てて背もたれから手を離した。前を向き、心臓の音が誰にも聞こえないように背を丸めて、マグカップを両手で握る。


「呼んでよ、みぃ」

「――……山内さん、ってそっちが言ったくせに」

 かろうじで反論する震えた声に、陽介は目を閉じる。


「先に辻浦君って呼んだのはみぃ」

「中学の頃、声かけてくれなくなったのはそっちだった」

「先に目を合せなくなったのはみぃだったけど?」

「よそよそしかった」

「それは謝ろうか。みぃがあんまり可愛いくなってたから。可愛い女の子の扱いに慣れてなくて」


 白々しい陽介の言葉に、実里は背もたれに体重をかけた。椅子が傾き、陽介が折り曲げられる。


「うそつき」


「俺がうそつきなら、みぃは浮気者? 婚約者がいるんだっけ?」

「……いたの? 廊下に……」

「悠大と浮気されたら、俺は手を引くしかない」

「止めもしなかったくせに」

「六歳児を?」

「じゃあ六歳のころ言った、結婚しよって約束を。今でもずっと引きずってる私はなんなの」

「だから、可愛い女の子」


 実里はぐっと口を噤んだ。学力では勝てても、口先では勝てないことを悟ったからだ。


「みぃ。教えて。どうして、『今日で終わり』って。教えてくれなかったの?」


 帰りがけ、実里が何かを言おうとしていた姿を陽介は思い出した。あの時はまた明日様子を見ればいいやと、悠長に考えていたのだ。まさか、その明日が来ないなどと、思いもせず。


「――にやついてる人に、教えたくない」

「聞きたいから教えて」

「じゃあその顔やめて」

「無理、期待してるから」

 陽介の満面の笑みを直視できずに実里は俯いた。いつも、彼が自分の作った夕飯を食べるのを見ている席で。いつもと、全然違う会話をしている現実が、上手く呑み込めない。


「――そ。って、言われたく、無かった」


 陽介はコーヒーのマグカップをことりと置いた。手のひらを床について、体を捻る。マグカップを持っていた実里の手を取れば、実里は力を抜いて陽介に預けた。実里の手を優しく包み込み、陽介は上目づかいに真っ赤な顔の実里を見つめる。


「実里」


 目を合わせられずに、実里はふるふると首を横に振った。


「その内俺が、さっきの『淋しい』を、撤回させてもいい?」

「十年前の二の舞になったら、今度は法的手段を取る」


 陽介は息を吐き出すようにして笑った。実里の手が、細かく震えている。頬ずりして飲み込みたい気持ちを必死で抑えて、陽介が実里の左手に口づける。


「じゃあ、予約」


 勉強時間をどう捻出するか。母をどう説得するか。そして最後に、明日の晩御飯は何を作ろうか――と、真っ赤な顔をしたまま、まんじりともせずにカフェオレを睨みつけていた実里は、ふと何か声が聞こえて顔を上げた。


「今だ! そこだ! 押し倒せ!」


 ……。


 二人の間に沈黙が流れる。陽介が実里から手を離し、立ち上がった。寝室の方でガタガタッとドアが揺れる音がする。

 陽介が容赦なくドアを開けた。不自然なポーズで固まっているセコンドが、へたくそな笑顔を浮かべながら二人を見た。


「あはははは……はははははー! あとはお若いお二人で。おばちゃんお風呂に入ってくるからね~」


 みぃちゃん、ごゆっくり。と冷や汗を流しながらウィンクした陽介の母が、そそくさと浴室へと逃げて行った。

 その後ろ姿を実里は茫然と見送った。


「本当、ろくなことしやしない」

 ため息をつく陽介に、実里が首を傾げた。

「そう? 話しやすくて、小さいころから好きだったよ。おばちゃん」

 実里の母は、どちらかといえばのんびりとしていて、陽介の母のような活発さがない。その点、明るくコロコロと表情のかわる陽介の母の自然さは、実里にとって珍しかった。


「アレなら、実里には恩もあるし。絶対嫁いびりしないよ。どう?」

「まだ予約の段階じゃなかったんデスカ」

「うちの部、じりじりこっちのペースに持ってくプレーが得意なの」

 なんてお似合いなんだ。実里は開いた口が塞がらなかった。

 宣言通り陽介に会話の主導権を持っていかれる前に、実里は一歩踏み出した。


「負け戦、してくれるなら」

「実里なら、完封試合されるってわかってても、こっちから頭下げて取り付けに行くけど?」


 そう、それなら、まぁ。なんとか。


 と、口ごもっている時点で既にどちらが――なんてこと。「遊びに向かない」実里が、気づくはずもなかったのだった。






 おわり





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