42枚目 全てを嘘が塗り替える
ドサリ、と。
アグル・バレンダだったものが、床に落ちる。
炎大剣によって串刺しにされ、床に墜落した青年の肉体。
それが二度と動く気配はもう皆無で、さらにはそこへ追い打ちをかけるように真紅色の炎が這い寄っていく。
虚像などではない。
偽物などではない。
あれは紛いもなくアグル・バレンダそのもので――
彼の肉をその血の一滴まで残すことなく、その存在そのものを焼き尽くすように。
真紅色の火炎がアグル・バレンダの亡骸をモノ言わぬ灰へ変えていく。
……己の母や、父と、同じように。
「あ~あ。やっと死んだ」
拍子抜けだとばかりに呟くアネイヤの裏で、クライはその事実を繰り返す。
死んだ。
死んだ。
アグルが。
アグル・バレンダが、死んだ。
復讐を果たすと、クライを必ず殺してくれると言ってくれたのに。
こうも簡単に。
呆気なく。
死んだ。
クライへ復讐を果たすためにクライを助けるなんて言っていたのに。
成し遂げたのはせいぜい少女の頬にかすり傷を残すだけ。
何も果たすことなく、アグルは死んだ。
嘘だと思いたかった。
いつもの騙し撃ちなのだと思いたかった。
けれど、力なく地に伏せたアグルの亡骸は彼が描く偽物のように消えることはない。
「ま、当然さ。むしろ良く健闘したほうだよ。ただの人間が世界そのものに抗うも同然のことをしたんだ。その結果、何一つ成し遂げることはなかったけどね」
その、塗り替えようのない事実を認識した瞬間。
――嘘吐きッ!
クライの何かが、弾け飛んだ。
「チッ、また――――」
――嘘吐きッ! アグルの嘘吐きッ!
――わたしを殺してくれるって言ったのに!
――知らない世界を教えてくれるって言ったのに!
――わたしを、わたしのことをッ、幸せにするって言ったのに!
言葉にならない、想いの濁流。
きっと、これはクライが生まれて初めてのことだろう。
生きることに絶望し、全てを諦めて《滅却樹》アネイヤに身体を乗っ取られたその内側で、抑えきれぬ感情が一斉に堰を切り、渦を巻いて溢れ出す。
――イヤッ、イヤだよ、アグルッ!
――立って、アグル! 立って、わたしを殺してッ!
「いい加減黙れよ。心配しなくても、すぐにキミも同じ所へ――」
もはや、それはアネイヤであろうと止めようはない。
際限なく湧き上がったクライの激情はアネイヤの意思も、《滅却樹》のチカラすらも押し流すようにして心の裡から溢れ出し――
「騙すなら、最後まで騙し通してよッ! アグルッッ!」
「……ああ、そうだな」
――言葉になった、その時だった。
少女の背後から、誰かの声が聞こえた。
ここは《滅却樹》の中。
アグルが死んだ以上、他に誰かがいるはずがない。
弾かれるように身体を支配するアネイヤが振り返る。
やはり、そこには誰の姿も見当たらない。
そこにあったのは床に突き立ったアグルの金剣があるのみ。
――――いや。
真紅色の炎に照らされ、床に黒い影を描く金色の剣。
その影が、金色の刃をゆっくりと上っていた。
少女の顔が驚愕に染まる。
同時に、金剣を上っていた影――『黒』の絵具が大きく蠢き始め、主たる筆者がいない中でなおその絵を世界に描き出した。
闇が溶けたような『黒』の絵具は色を変え、形を変え――
――手となって金剣を握り、
――足となって床を蹴飛ばし、
――瞳となって少女を見定め、
描き出されたアグル・バレンダが、少女の身体を斬り裂いた。
◇――――――
ガシャンと、少女が握っていた炎大剣が床に落ちた。
「…………嘘、だろう?」
「ああ。これは嘘だ」
愕然とした顔で膝から崩れ落ちた己の身体を見下ろすアネイヤにアグルは頷く。
――アグルの放った斬撃は、間違いなく少女の身体を斬り裂いた。
しかし、斬り裂かれたはずの少女の身体からは、鮮血の一つも流れてはいなかった。
それどころか、断ち斬られた炎のドレスから覗く少女の柔肌にも傷一つすら見つかることはない。
どういうことかと困惑に揺れるアネイヤの瞳は、アグルの言葉によってやがて原因に思い至ったのか大きく瞼を開かせてケラケラと乾いた笑い声を上げ始めた。
「……ああ。ああッ! そうか、ハハハッ! アハハハハッ! まさか、キミ――自分の虚像を描いたんだね!」
「そうだ」
――つい、先ほどのこと。
炎大剣が彼を貫いた時、アグル・バレンダという人間の命は確かに終わった。
それは紛れもない事実である。
なにせ巨大な刃に身体を穿ち断たれた上に真紅色の火炎によって焼き尽くされたのだ。
どんな奇跡が起ころうと助かることはない。
ゆえに今、ここにいるアグル・バレンダは――
「お前と似たような状態だよ、聖女祖アネイヤ。記憶も、感情も、使命も、オレが持っていた全てを受け継いではいるが、オレはもう元のオレとは違って人間じゃなくなった」
――死んだアグル・バレンダが最後に己自身の全てを模して描いた虚像。
それが、今のアグルであった。
「アハハハッ……いやはや、まさか復讐のためにそこまでするような輩がボク以外にもいるとはね。恐れ入ったよ! けど、残念だったね! 《滅却樹》の枝はもう世界中に伸びている! こんな騙し撃ち程度で――」
「さっきも言ったはずだ」
勝ち誇るような口ぶりのアネイヤを遮るアグル。
「オレは騙し絵描きだ。クライの身体をよく見てみるんだな」
アネイヤが眉を寄せながら自身を見下ろす。
炎で繕ったドレスが消え、元の紅のネグリジェが姿を現わしていた。
炎によって焼け焦げてはいるが、ネグリジェには血が染みているような様子はない。
だが、その代わりに。
少女の胸部、アグルが斬り付けた場所から黒の絵具が流れ出していた。
「――――ッ!?」
「お前のチカラが守護者のものであるように、オレの《黒の虚偽》だって守護者のチカラによるもの。道理で戦闘中に剣撃ばかりを防いでくる訳だ。内側から干渉されたら、さしもの炎でも焼き消すようなマネはできないんだろう?」
血相を変えてアネイヤがネグリジェを破った。
露わになる少女の幼い裸身。
アグルが斬り付けた胸のあたりから黒い絵具が白磁の肌の上に流れ出し、下腹部に浮かび上がる紋様――《滅却樹》の術式を塗り潰していた。
黒い絵具に塗り潰され、真紅色の煌めきが急速に色を失っていく。
それだけではない。
少女の身体を塗り潰していく絵具は床にまで流れ出し、床の溝や亀裂などを通る形で際限なく周囲へ広がっていた。
――さながら、世界の景色を塗り替えるかの如く。
周囲で燃え盛る真紅色の炎が絵具によって塗りつぶされていく中、アネイヤは信じられないとばかりに目を大きく見開いてアグルを見上げてきた。
「まさか、キミは――」
「ああ。お前を……いや、違うな」
言いながら、アグルは金剣の剣先を少女に突き付ける。
「これから、オレの嘘が世界を塗り変える




