37枚目 たとえ炎獄の中であろうと
――炎の大樹は、いったいどこまでその枝を伸ばしているのだろうか。
魔女衆の過ちに対する罰であると知らしめるかの如く、燃え盛る灼熱の海は未だ収まる様子もない。
古城へと向かったアグルを見送り、アンシアたちは彼が残してくれたカウレインまでの道を進んでいた。
それどころか、アグルが作った道もだんだんと炎の手が迫ることになり――
「そんなッ、道がどんどん炎に……!?」
「うろたえる暇があるなら進みなさい! 他の者も、滅却樹の炎でなければ我々の魔術も通用します!」
後ろの侍女へ叱咤を飛ばしながら、アンシアは痛む身体に鞭打って魔術を行使する。
アンシアたち使用人は、全員が魔術に通じているわけではない。
魔術の使えない者には怪我人などの手助けを任せ、魔術を使えるアンシアたちで周辺の炎を蹴散らしてく。
――アグルと別れてから、およそ十五分ほどでしょうか。
いっこうに出口が見えない炎の中を歩みながら、アンシアは思う。
アンシアたちにできることはもう何もない。
せいぜいが、これ以上の犠牲を出してクライを悲しませないように死にもの狂いで炎から逃げることだけ。
相手は世界のすべてを焼き尽くす滅却樹。
ただの人間が太刀打ちできるような存在ではない。
だから、諦めることが普通なのだ。
水泡のように消えてしまった数多の努力を悔やみ、願いが叶わなかったと悲嘆し、迫りくる絶望に恐怖する。
『オレは、オレの復讐を果たす』
なのに、あの男だけは違った。
アグル・バレンダ。
八年前の事故によって最愛の人物を失い、復讐を果たすために生きてきた青年。
あの男には、アンシアの中に渦巻く『普通』の感情はなかった。
彼は、まだ諦めていないのだ。
全てを諦めてもおかしくない状況であるにもかかわらず、あの男はそれでも自分の手で復讐を果たそうと古城へと舞い戻っていったのだ。
アンシアの思う『普通』とは程遠い行動である。
しかし、それこそがアグル・バレンダという青年だった。
彼は『普通』の騎士ではない。
『普通』の魔術師でも、『普通』の絵描きでも――そして、きっと『普通』の復習者でもないだろう。
だから、アンシアは彼に託したのだ。
『普通』ではない、最悪の状況。
『普通』ではないアグルだあるからこそ、アンシアたちが思いもよらない結末を描いてくれるかもしれない、と。
無駄な願いだというのはアンシアでも分かっている。
いくらアグルでも、こんな惨状を塗り替えられるほどの力などあるはずがない。
何より、彼の仇は他ならぬクライ。
アンシアの願う結末など、万に一つもあり得ないのだ。
――どうか、せめて、お嬢さまを……楽に差し上げてください。
だとしても、もう――彼にすがるしかなかった。
「ダメッ、魔術が――」
「クソッ! こんなところで……ッ!」
「待ちなさいッ! その炎はいけません!」
どよめく使用人たちの声がアンシアの思考を遮り、彼女は眼前を睨みつける。
アンシアの声と共に歩みを止める一行。彼らの前に立ちふさがったのは、周りの木々を焼き尽くす紅蓮とは一線を画した――真紅色の炎。
木々も、炎も、魔術すら悉くを焼き尽くして蠢く真紅色の炎を前に、アンシアたち全員の表情に絶望の色がありありと浮かび上がった。
見紛うはずもない。これは――
――滅却樹、《焼却回帰》の炎……ッ!
「……侍女長。これは」
「ええ……流石に、これを突破するのはできませんね」
すでにほとんどの者が己の魔術を使い潰した後だ。
即席の術式を構築するのは不可能ではないだろうが、簡易魔術程度でこの炎に対抗するのは不可能。
今から迂回路を探そうにも、左右はすでに火の海の中だ。
怪我人らを連れて行ける道ではない。
万策尽きたとはまさにこのこと。
轟々と燃え盛りながら迫りくる真紅色の炎を見上げながら、アンシアはゆっくりと瞼を閉じる。
「……申し訳ございません、お嬢さま」
私たちは、お先に――
「凍てつきなさい、《ニーズヘッグ》」
瞬間、周辺からあらゆる熱が消失した。
制止。
沈黙。
炎の燃え盛る音すら消え去るほどの静寂。
時が停止したかのような静寂が周囲を包みこみ、冷たい空気がアンシアの頬を撫でた。
いったい何が起こったのか。
アンシアたちが閉じた瞼を開くと――真紅と紅蓮の炎がうごめく灼熱の海から一変、巨大な氷塊に囲われた凍土の光景が広がっていた。
吐いた息が白くなるほどの凍土。そびえ立つ氷塊の向こうではいまだ灼熱の海が広がっていることから、魔術によるものなのはすぐに分かった。
しかし――
「魔術の術式ごと焼き尽くす真紅色の炎……ですが、流石に炎がある空間そのものを凍らせてしまえば、小規模なら対処はできるようですね」
――炎が、氷漬けになった?
見上げた先にあるのは、炎がその形を保ったまま静止した氷塊。
真紅色の炎が『時が止まったかのように』氷漬けにするような魔術を、アンシアは知らなかった。
「これは、いったい……?」
「ご無事ですか、魔女衆のみなさん?」
あまりにも突然の変化に驚くアンシアに、少女の声が応じた。
先ほど聞こえたモノと同じ、清らかで美しい声だ。
こちらは知っている。アンシアが声のした方を向くと、十人ほどの教会騎士と共に彼女がその姿を現した。
聖女ラトレイナ。
助かったという喜びもつかの間、アンシアたちの表情が凍りついた。
それもそのはず。教会の聖女であるラトレイナにとってアンシアたち魔女衆は「禁忌を犯した危険分子であり、滅却樹を起動させてしまった元凶」だ。
救助などもってのほか、今この場で戦闘になっても何らおかしくはなかった。
戦々恐々と身構えるアンシアたち。
対するラトレイナはそんな彼女たちを鋭く一瞥したと共に、部下である教会騎士たちへ指示を飛ばす。
「速やかに怪我人の処置を。半分は周囲の警戒をしてください」
「…………え?」
思わずアンシアは茫然した声を上げた。
それは他の者たちも同じだった。
思いもよらぬ指示にアンシアたちが動揺する中、ラトレイナは凛然としたまま手にした錫杖を地面に突く。
「今は非常事態です。ここで無駄に争っていられるような暇はありません。もちろん、アナタがたのやったことは許されることではないでしょう。ですが、その責任をアナタがたに問うのは、ここである必要はありません」
「……アナタの言葉を、私たちが信じるとでも?」
「一応、まだ同盟は続いていますよ? わたくしたちだって無駄な人殺しなんてしたくありませんし、助けられる命があるなら、助けるのが守護者である聖女の役目です」
「……わかりました」
確かに、ラトレイナの言うとおりである。
滅却樹が起動してしまった今、アンシアたちを相手にしている暇はない。
普通ならこのまま捨て置かれてもおかしくない以上、こちらにとっては僥倖である。
アンシアが承諾したことを受けて、他の者たちも警戒を解く。
こうしている間も氷塊の外は炎で埋め尽くされているのだ。
葛藤している時間などありはしない。
すぐさま重傷者などを優先して応急処置が開始された。
ユーレインと言っただろうか、ラトレイナ直属の護衛である彼女には医学の心得があるようで、彼女が中心となって速やかに手当てが進められていく。
アンシア自身は比較的に軽傷であったので、道具だけを借りて自分で簡単な処置を済ませた。
「少し、よろしいでしょうか?」
ラトレイナが声をかけてきたのは、ちょうどそれが終わった頃合いだった。
ここまで他の使用人たちを指揮していたのはアンシアだ。
普通ならば古城の状況でも訊きに来たと思うところだが、彼女に限っては違うだろう。
「何か?」
「お兄さま……アグル・バレンダを見ませんでしたか?」
「……はい。見ました」
「本当ですかッ? それで、どこに――」
張り上げたラトレイナの声が途中で止まった。
アグル・バレンダはアンシアたちとは一緒にいない。
その事実だけで彼が向かった先が分かったのだろう。
気絶したアグルを連れてカウレインへと撤退したのは他ならぬラトレイナである。
彼が何をしにどこへ向かったのかはすでに聞いているはずだ。
「……いいえ、お兄さまは何かおっしゃっていませんでしたか?」
ラトレイナは言葉を呑み込むように小さく喉を鳴らしてから、別の問いを口にした。
その間に挟まった短い葛藤の意味は、アンシアには知る由もない。
ゆえにアンシアは聞いたままの言葉を告げた。
「復讐を果たす、と……」
「……そう、ですか」
あからさまに語気を落とすラトレイナ。
しかし、それはほんの一瞬だった。
気を落とした暗い顔から一変、すぐに元の凛然とした顔つきへ戻る。
それから部下の教会騎士に何かを話した後に再びアンシアの方へ向き直った。
「氷塊はおそらく十五分ほどはもつでしょう。応急処置が済んだのち、皆さんはわたくしの部下と共に森を脱出してください。森の外に、残りの部隊を待機させています」
「……アナタは、一人で追いかけるつもりですか?」
「もちろん」
何を当たり前のことを、と言いたげにラトレイナは答える。
「わたくしは聖女です。教会を率いる立場として家の名を捨てた身ですが、それまでの縁までをも捨てたつもりはありません。危険は承知の上です。それに――」
言葉を告げるラトレイナの、瞳。
そこに、決意の色が強く灯っていた。
「もう、姉さまの時のように手遅れだったなんてことはイヤですから。家族としての縁はありませんが、お兄さまはわたくしの大切な人です」
大切な人を失いたくない。
だから、死なせたくない。
「どんなことがあっても、どんな結果になろうとも、わたくしはお兄さまの――妹であり続けます。お兄さまがどんな選択をされようと、わたくしはそれを見届けます」
瞳の端に、ほんの小さな涙の痕を残したまま、ラトレイナは告げる。
「それは、普通のことでしょう?」
「普通――」
思わず、アンシアはその言葉を反芻していた。
――大切な人を、死なせない。
そんなもの当たり前だ。
アンシアだって、クライが大切だったから、ヘイグリッドの研究にも協力して、恥を忍んでアグルへ協力を申し出たこともあった。
それは当然のことで、当たり前のことで――なのに。
……何が、お嬢さまを楽にして差し上げてほしい、ですか……ッ!
なんたる、なんたる体たらくか。
「…………え?」
パシンッ! と大きな音が響いた。
アンシアが自分の頬を思い切り叩いたのだ。
周囲の面々がギョッとして彼女の方を注目する中で、アンシアは驚いた顔をするラトレイナへと向き直った。
「聖女ラトレイナ。一つ、お願いがあります」
――たとえ、これが無駄なことであったとしても。
滅却樹が起動してしまった以上、クライが助かる術なんてない。
だからアンシアは諦めて、その結末をアグルに託したのだ。
助けに行くことも出来ず、最期を見届けることも出来ないまま。
――けど、私は……お嬢さまの従者。
「私も、アナタに同行させてください」
ならば、どのような結末になろうとも――
それを見届けるのが、自分の役目である。




