第1章 帝国軍5万人 王都を落とした帝国軍が離宮に暮らす第3王女の領地も焼いて攻めてきました。
新しいお話を始めました。主人公はカタリナ 今まで書いたお話の主人公 どろちゃんやオリビアと違って冷徹です。転生前は30歳手前の防衛産業航空機エンジニアです。
第1章 帝国軍5万人
「陛下、帝国軍が牧草地に入りきりました」
丘の上の小さな離宮から見下ろすと、草地は人と馬で埋まっていた。
「およそ5万人で間違いありません」
「村の火は?」
「まだ燃えています。何か所も」
「では、使えます」
近衛兵は窓の外とカタリナの顔を交互に見た。
「何を、でしょうか」
「転移魔法です」
「5万人を、どこかへ転移させるのですか」
「いいえ。それでは魔力が足りません」
カタリナは机へ向かい、紙の中央に式を書いた。
必要魔力 ∝ 密度比 × 交換する質量 × 距離
「転移魔法は、物を一方的に消して別の場所へ出す魔法ではありません。同じ体積を、2つの場所で交換します」
「はい。それは存じております」
「人間と空気を交換しようとすると、密度が違いすぎます。それに5万人分の質量です。とても無理です」
「では、何を交換なさるのですか」
カタリナは、遠くで煙を上げている村を指した。
「燃えている村の空気に、一酸化炭素があります」
「一酸化……」
「名前は覚えなくてもかまいません」
近衛兵が小さくうなずいた。カタリナはそれ以上、彼に化学の授業をするつもりはなかった。
木や布、家財のように炭素を含むものが燃えるとき、酸素が十分なら主に二酸化炭素になる。しかし、家屋の内部や崩れた建物の下のように酸素が足りないところでは、不完全燃焼によって一酸化炭素が生じる。
一酸化炭素は色も匂いもほとんどなく、吸い込めば血液による酸素の運搬を妨げる危険な気体だった。
そして、交換する相手は丘の下にいくらでもあった。
「空気の大部分は窒素です」
「窒素、ですか」
「人が呼吸に使っている酸素とは別の気体です。空気の中には酸素よりずっと多くあります。普段は反応しにくく、呼吸にも使えません」
近衛兵は少し困った顔をした。
「申し訳ありません。そこから先は、私には分かりません」
「それで十分です。危険な場所へ近づかないでいただければ」
カタリナは紙へ視線を戻した。
同じ基準温度、同じ基準圧力で比べると、一酸化炭素と窒素の密度はほとんど同じになる。転移魔法の消費を大きくする密度比は、ほぼ1だった。
実際の村の空気が熱いことは、その密度比の計算には入れない。密度は同じ基準条件で比べる。その代わり、現実に存在する温度差そのものは、魔力へ変えることができる。
燃えている村々と、丘の下の牧草地。
いまは、その差が大きかった。
「村の火を、魔力にするのですか」
「正確には、温度差を使います。足りない分をそこから補います」
「そんな転移魔法の使い方があるとは……」
「わたくしも、今日まではしていません」
カタリナはもう一度、丘の下を見た。
帝国軍は王都を落とした勢いのまま、最後の仕事を終えるつもりで集まっている。5万人が広い国土へ散っていたなら、こんなことはできなかった。だが、小さな王国の、そのまた小さな離宮を囲むために、ほぼ全軍が1つの牧草地へ集まっていた。
「離宮の窓を閉めてください。避難してきた方々は丘から下ろさないで。こちらの兵も牧草地へ近づけないでください」
「承知しました」
「それから、しばらくは誰も丘を下りないでください」
「危険が残るのですね」
「はい」
命令が伝えられていった。
カタリナは、燃えている村々の空気から一酸化炭素だけを選ぶ。丘の下では、帝国軍が占めている範囲の空気から窒素だけを選ぶ。
同じ体積を交換する。
空気そのものを押し込むのではないから、密閉された場所へ物を出したときのように圧力を上げることもない。
最後に、式をもう一度確認した。見るべきものは、密度比、交換する質量、距離の3つだった。不足する魔力には、温度差を使う。
「陛下」
「はい」
「準備が整いました」
カタリナは紙を置いた。
「では、始めます」
転移魔法が発動した。
光は出なかった。爆発もしなかった。丘の上にいた者には、風向きさえ変わったようには見えなかった。
「……何も起きていないように見えます」
「少し待ってください」
牧草地の端で、兵が1人しゃがみ込んだ。
隣の兵が腕をつかんだところで、その兵も膝をついた。
少し離れた場所では、旗を持っていた兵の手から旗竿が落ちた。馬が首を振り、次々に脚を折るように座り込んでいく。隊列の中で何かを叫ぶ者がいたが、その声も長くは続かなかった。
「陛下、あちらもです」
「はい」
倒れる場所が1か所ではなくなった。
前列だけでもない。中央でも、後ろでも、人の動きが急に途切れていく。立ったまま周囲を見回していた兵が数歩歩いて倒れ、その横を走ろうとした別の兵も、途中で足を止めた。
帝国軍は何かに襲われていることだけは分かったらしい。
だが、矢は飛んでこない。丘から兵が下りてくるわけでもない。
原因を探している間にも、動く人影は減っていった。
「まだ誰も下へ行かせないでください」
「承知しました」
やがて牧草地から、大きな動きが消えた。
それでもカタリナは確認を許さなかった。
丘の上では、村から逃げてきた人々が身を寄せ合って待った。離宮の兵も、窓や戸口から丘の下を見ていた。
時間だけが過ぎていった。
数時間後。
「陛下。そろそろ確認に出てもよろしいでしょうか」
カタリナは外の様子を見てから、うなずいた。
「少人数でお願いします。少しでも異常を感じたら戻ってください」
「承知しました」
確認に出た兵たちは、しばらく戻ってこなかった。
やがて丘を上がってきた数人の姿が見えた。
先頭の兵は離宮の前まで来ると、兜を取った。
「陛下」
「どうでした」
「生きている帝国兵は、誰もおりません」
周囲にいた者たちの間から、息を吐く音がいくつも重なった。
「5万人、ですか」
「確認できた範囲では、全員です」
カタリナはしばらく牧草地を見た。
「分かりました。では、丘へ逃げてきた方々に伝えてください。もう帝国軍に追われることはありません」
「はい」
離宮の周りで、その知らせが広がっていった。
こうして、カタリナ女王と、丘へ逃げ込んだ領民たちは助かった。




