第一話 『絶望の飢餓、あるいは血に濡れた救済』
異世界の土は、ひどく冷たかった。
一ノ瀬時流という名とともに、日本の生温い日常をマウンテンバイクの衝撃で粉砕された僕は、いまや
リヒト・フェルンという名の、化け物へと成り果てていた。
目が覚めたのは、鼻を突く腐敗臭が立ち込める原生林。女神に刻まれた呪い――右手の甲にある『クロノ・ドレイン』の紋章が、脈打つたびに僕の魂を削り取っていく。
耐え難い空腹感に突き動かされ、ふらつく足取りで辿り着いたキャンプ場。そこにいた野盗の男が僕の肩に触れた瞬間、すべては終わった。
「あ――がっ、あ、あああぁぁぁ!!」
男の肉体から数十年の「時間」が僕の中へと流れ込み、男は一瞬で乾いた枯れ木のように崩れ落ちた。
飢えが消え、力がみなぎる。他者の命を「食事」に変える最悪の背徳感が、僕の倫理観を内側から食い破っていった。
夜が明ける頃、キャンプに残されていたのは、枯れ木のように転がる数多の死体と、血の通わない白い肌を持つ十歳の僕だけだった。
それから数日間、僕はボロボロの布を纏い、人目を避けるようにして街道沿いを彷徨った。
一ノ瀬時流としての良心は、まだ完全には死んでいなかった。人を殺めてしまった恐怖に震えながらも、僕はどこかで「誰かに助けてほしい」「誰かの役に立ちたい」と願っていたのだ。
ある日の夕暮れ時、近くの村の入り口付近で、一人の少女が数人の男たちに囲まれているのを見かけた。
男たちは酒臭く、少女の泣き声を嘲笑いながら彼女を乱暴に引きずろうとしていた。
(助けなきゃ……。今度は、壊すためじゃなく、守るためにこの力を使えば……)
僕は駆け出し、少女と男たちの間に割り込んだ。
「やめてください! その子を放して!」
男たちはぎょっとして僕を見た。しかし、僕の小さな体躯を見ると、すぐに鼻で笑った。
「なんだ、このガキは。銀髪に赤い目……気色悪い面しやがって。どけ、死にたいのか!」
一人の男が僕の胸ぐらを掴み、突き飛ばそうとした。
その瞬間、またあの禍々しい漆黒の魔力が右手を駆け抜けた。
「あ、あああぁぁぁ!!」
男は悲鳴を上げながら、一瞬で老人のように萎び、絶命した。
他の男たちが恐怖に顔を強張らせる。僕は必死に叫んだ。
「これ以上、何もしないで! 僕は、ただ助けたいだけで……!」
恐怖に駆られた男たちは、腰を抜かしながら逃げ去っていった。
一人生き残った少女。僕は震える手を差し出し、彼女を立たせてあげようとした。僕の手は、まだあの男を殺した時の熱が残っていて、ひどく汚れているように感じたけれど。
「大丈夫? もう怖くないよ。怪我はない……?」
だが、少女が僕に向けたのは、感謝の言葉ではなかった。
彼女は、蛇に睨まれた蛙のように顔を引き攣らせ、僕の手を激しく振り払った。
「……化け物」
「え……?」
「来ないで! 触らないで! この、人殺しの化け物ッ!!」
少女は泣き叫びながら、村の方へと走っていった。
残されたのは、夕闇の中に佇む僕と、僕が奪った命の残骸だけ。
「僕は……ただ、助けたかっただけなのに……」
誰も僕を見てはくれない。誰も僕に触れてはくれない。
あの女神の、甘く冷たい囁きが、呪いのように脳裏に響く。
『この世界に、あなたの味方なんて一人もいない。――そう、全員敵よ』
その日から、僕は他人を助けることをやめた。
感謝も、温もりも、この世界には存在しない。
生きるために、僕は獲物を選んだ。街を襲う賊、命を弄ぶ悪党。その未来を啜り、僕は孤独という鎧を纏って、ただの化け物として生きる道を選んだ。
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それから五年の歳月が流れた。
十五歳になった俺は、この世界の「理」を、あまりにも残酷な形で理解していた。
この世界には、俺のように女神によって送り込まれた『転生者』が存在すること。
そして、その転生者たちは強力なスキルを持つがゆえに、現地の人間に恐れられ、あるいはその力を利用しようとする者たちに狩られる対象――
『転生者狩り』の標的であること。
俺は一人で生きてきた。
誰とも関わらず、誰にも触れさせず。
俺に触れれば、人は老い、死ぬ。
孤独は俺の肌を白く、心を氷のように冷たく変えていった。
「時剥ぎ」という二つ名は、今や国境を越えて広まる怪談となっていた。
ある日、俺は国境沿いの廃教会に身を寄せていた。
月光がステンドグラスを通り抜け、床に極彩色の影を落とす。
「……また、一人殺した」
右手の紋章を見つめ、僕は呟く。
今日、俺を襲ってきた暗殺者から奪ったのは、わずか十二年の寿命だった。
その程度では、もう数日も持たない。
自分は生きるために、これからも誰かの未来を食いつぶし続けるのか。
終わりが見えない旅路に、俺はそっと瞳を閉じた。
その時だった。
ギィ……と、重厚な扉が開く音が静寂を破った。
「……誰だ。死にたくなければ、今すぐ立ち去れ」
俺は即座に跳ね起き、右手に漆黒の魔力を収束させる。
そこには、自分と同年代に見える一人の少年が立っていた。
夜の闇を溶かしたような黒い外套を纏い、足音を立てずに歩み寄ってくる。
「死ぬ、か。……久しく忘れていた言葉だな」
少年の声は、驚くほど穏やかだった。
俺の異様な姿、そして周囲に漂う死の気配に、怯える様子すら見せない。
「警告はしたぞ!」
俺は地面を蹴った。
他者の時間を奪い続けてきた肉体は、常人のそれを遥かに凌駕する。
一瞬で間合いを詰め、呪われた右手を少年の胸元へ突き出す。
触れれば、この少年の人生も数秒で終わるはずだった。
だが――
「……っ!? なぜだ、なぜ流れてこない……!」
俺の瞳が驚愕に見開かれた。
右手が少年の胸に触れている。しかし、そこから「時間」が流れ込んでこない。
それどころか、触れた指先から、宇宙の深淵を覗き込むような底知れない「虚無」が返ってくるのだ。
「お前の力、面白いな。……だが、俺から奪うには、お前の器が少し足りないようだ」
少年は、不敵な笑みを浮かべた。
その瞳の奥には、俺が今まで出会った誰よりも深く、昏い闇が宿っている。
「アンタ、何者だ……。何をしたっ!」
「落ち着け。俺もお前と同じさ。……あの理不尽な女神に、望まぬ力を押し付けられた『被害者』の一人だよ」
少年はゆっくりと手を離し、俺の紋章を見つめた。
「お前の苦しみはわかる。一人で、ずっと『空腹』と戦ってきたんだろう?」
その言葉は、五年間、誰一人として与えてくれなかった理解だった。
俺の警戒心が、微かに、ほんの微かにだけ揺らぐ。
少年はゆっくりと黒い手袋を脱ぎ、その素顔を月光の下に晒した。
「俺の名はカイ。カイ・シュバルツ・クロノス……リヒト・フェルン、お前の噂はかねがね聞いている。孤独な死神として恐れられるお前の苦しみを、分かち合える相手を探していたんだ」
「分かち合う……? 俺に触れて、無事な人間なんて……」
「俺の力なら、お前を救うことができるかもしれない…。俺のスキルは……」
カイがそう言いかけた、その時。
廃教会の窓ガラスが爆散した。
「見つけたぞ! 時剥ぎと、もう一匹のネズミを!」
教会の入り口、そして破壊された窓から、武装した集団がなだれ込んできた。その数は十数人。全員が、魔力を帯びた特殊な銀の鎧を身に纏っている。
「『転生者狩り』の特務部隊か。しつこい連中だ」
カイが忌々しげに吐き捨てる。俺は即座に戦闘態勢に入った。
「アンタは下がってろ! 俺が触れればこいつらはすぐ終わる!」
俺は最前線の男に肉薄し、その喉元を掴もうとする。しかし、男が掲げた盾には特殊な魔法陣が刻まれており、俺の指先を力強く弾き飛ばした。
「無駄だ! その『寿命吸収』の力、対策済みなんだよ!」
「なっ……!?」
俺の背後に、別の男が回り込む。大振りの斧が、僕の細い背中を両断せんと振り下ろされる。
「リヒト、危ない!」
カイが叫び、俺の前に割り込んだ。鋭い斧の刃が、カイの肩に深く食い込む。鮮血が舞い、俺の頬を赤く濡らした。
「……っ!!!な……なんで……っ!!!」
俺の悲鳴が教会に響き渡る。だがその直後、戦場を異様な現象が支配した。
「……がはっ!? な、なんだ、何が起きた……ッ!?」
カイを斬りつけたはずの男が、突如として自分の胸から大量の血を噴き出して倒れ伏したのだ。まるで、カイに与えたはずの傷が、見えない力でそのまま自分へと転移したかのような不可解な光景。
他の男たちが動揺し、腰を抜かす。
「なんだ今のスキルは! 斬ったのはこっちだぞ!」
「近寄るな……。俺の仲間を、これ以上傷つけさせるわけにはいかない」
カイは肩の傷を押さえながら、冷酷な光を瞳に宿した。
彼は俺に聞こえないほどの細い声で、空気に命令を下す。
『――事象の否定。対象の視界を剥奪する』
次の瞬間、襲撃者たちは突如として叫び声を上げ、自分の目を押さえてのたうち回った。
「……ひっ、光が……! 目が、何も見えない! た、助けてくれぇぇぇっ!!!」
混乱に陥り、自滅していく敵の中を、カイは冷徹に突き進んでいく。
俺は、その光景に息を呑んだ。自分と同じ、あるいはそれ以上の「スキル」を、この男は秘めている。
「……。アンタ……、今何をしたんだ?」
敵を退けた後、カイは力尽きたように壁に背を預けた。肩の傷は深く、苦しげに荒い息を吐いている。
「……はぁ、はぁ……。俺のスキルは『|サクリファイス・クロック《身代わりの秒針》』。仲間に降りかかるダメージを、俺の『寿命』を代償に引き受ける力だ……」
カイは震える手で自身の右手の紋章を隠し、消え入りそうな声で続けた。
「……さっきのは、お前の受けたはずの傷を俺が肩代わりし……さらに俺の寿命を『追加』で削ることで、そのダメージを相手にそのまま”お返し”したんだ。……悪いな、少し寿命を使いすぎたみたいだ……」
「寿命を追加で削って、あいつらに……? 俺を守るために、そんな……!」
俺の胸を、激しい衝撃が貫いた。
ただ肩代わりするだけではなく、自分の命をさらに燃やして敵を討つ。
他者の命を奪うことでしか生きられない自分を、そこまでして守ろうとする人間が、この世にいるなんて。
「……バカだよ。そんなことしたら、キミの命がすぐになくなっちゃうじゃないか」
「いいんだ……。一人で死ぬのは慣れている。でも、お前のような奴を放っておくことはできなかった」
カイは血の気の引いた顔で、けれど優しく微笑み、血に濡れた手をそっと差し出した。
「……なぁ、リヒト。俺と一緒に来ないか? 俺たちの呪いを合わせれば、きっと誰かの役に立てる。……お前はもう、孤独な化け物なんかじゃない」
罪を背負い続けた五年。そのすべてを揺るがすものが、今、俺に突きつけられた――
「許し」だ。
俺は、迷うことなくカイの手を握りしめる。
カイの肌は冷たかったが、俺にはそれが、自分と同じ孤独を背負った、尊い自己犠牲の温もりに感じられた。
奪うことでしか生きられない死神と、命を削って守ると誓った少年。
俺たちの歪な、けれど確かな絆の旅路が、今ここから静かに幕を上げた。




