第五章 その2 エクスプロイット
「アンジェリカの言うとおり、イワンは生きている」
椅子の上で片膝を抱いて、静かにキイチの話を聞いていたカナが口を開く。
すでに時刻は午前三時を回っていた。
アンジェリカとの唯一の連絡手段であるスマートフォンは電源をオフにしているものの、すでに重要参考人としてキイチの身元は割れてしまっているだろう。クラスメイトという情報からカナの存在も知られているかもしれない。
今や逃亡者となってしまったキイチたちにとって時間は貴重だ。少なくとも、お互いの情報を交換し、状況を整理するまでは休むわけにはいかない。
カナは片手でキーボードを操作してモニタに男の映像を映し出す。赤毛に近い茶色のカーリーヘア、こけた頬に獣じみた鋭い瞳は無精ひげと相まって野性的だ。
「これがロシアのサイバーテロ組織ILFの首謀者、ヤーコフ。数年前からイワンを連れて箱庭都市に潜伏してる。匿っているのはN/Aと呼ばれるカルト集団」
「N/A? 利用不可かよ」
キイチの軽口にカナが頷く。
「N/Aは元々、Not Available、箱庭都市の住民データベースで照合できない人のことを指していたのよ。そういう人が集まって、監視社会からの解放を目的とした組織に変わっていった、ということになってる」
「なっている、てことは、本当はそうじゃないと?」
「はっきりとした根拠があるわけじゃないけれど、N/Aが集まるってこと自体が不自然よね。住民データベースに登録されてないと生活に支障が出るんだから、再申請してきちんと登録情報を修正すればいいだけの話」
確かに、とキイチは頷きながら、ソイレントクラッカーを一枚取って口に運ぶ。
「じゃあ、N/Aは意図的に住民データベースから自分のデータを消去した、ということか?」
「そんなことができるほど住民データベースのセキュリティは甘くない」
「でもお前はやったんだろ、住民データベースの書き換え」
「彼らのスキルでは無理。あたしを拉致しようとしたのがその証拠」
「どういうことだ?」
「この都市のハッカー向けブラックマーケットに未知の攻撃ツールをいくつか出品したのよ。わざと出品者をたどれるようにしてね。案の定、短絡的にあたし自身を取り込もうとしてあのアパートを襲撃したようね。あたしの代わりにPCを持って行ったみたいだけど」
「じゃあ、あのアパートは最初から奴らを引っかけるために借りたものだったのか」
「あの委員長が訪ねて来るまでは住んでた。クラスメイトですらたどり着ける家に住み続けるなんて自殺行為よ」
「それでここに引っ越して、あの部屋はトラップに使ったわけか」
「そう。あたしの見立てではセブンアイズ・タワー倒壊計画というのが存在するのなら、その立案・実行はN/A以外にあり得ない。だから、彼ら好みの攻撃ツールでおびき寄せたのよ」
「やつら好みって、どんな攻撃ツールなんだ?」
「列車運行システムや信号のクラックツールとか、キラードローンキット一式」
キイチの口からぽろり、とクラッカーが落ちる。
「なんだと……」
「どうかした?」
「最近のサイバーテロ、全部じゃねえか!」
「そうね。手に入れた玩具をすぐに使いたがるなんて、ほんとガキ」
事もなげに言い放つカナ。
頭がかっと熱くなり、思わずキイチは襟首を絞り上げた。椅子からカナの華奢な身体が浮き、Tシャツの裾がまくれて薄いお腹が覗く。
だが、それでもカナの冷静な表情は変わらない。
「ふざけるな。お前のせいで、アンジェリカは死にかけたんだぞ」
「それがどうしたの。あたしは潜入捜査をしているのよ。ターゲットを信用させるためならそれくらいはするわ」
「人の命がかかってるんだぞ、分かってんのか」
「だから、あたしも命をかけてる」
カナはそう言ってキイチを見つめ返す。
そこにためらいや後悔、後ろめたさの色は見えなかった。
怒りにまかせて大声を出したキイチを怯ませるような、澄んだ、静かな瞳だった。
「お、俺は……ケイに……妹に会うために何千年もかけて転生したんだ。すべては妹を取り戻すために……。それをお前は」
怒りに震えながら、努めて慎重に言葉を紡ぐ。
「何かを手に入れる覚悟っていうのは、その代わりに何かを失う覚悟のこと。キーくんがアンジェリカを救いたい、手に入れたいとそれだけを思うのなら、任務なんか放りだして無理矢理にでも連れ去るべき。違う?」
キイチは答えられなかった。
そのとおりだった。
だが、それでも平気で他人の命を危険に晒すことに同意はできない。キイチはカナにどんな態度で接すればいいのか分からなかった。
手から力が抜け、カナの身体がすとん、と落ちる。カナはTシャツの裾を引っ張って整えると、テーブルの上に手を伸ばした。
ただ、うつむくだけのキイチに、カナがすっと一台のノートPCを差し出す。
「連中が盗んでいったのはこれと同じもの」
それは一見普通のノートPCだった。




