エピローグ 2
その大陸の人々は、黄金色の肌をしている。
《黄金の大陸》は、目を焦がす太陽のもと、胸を騒がせるような色の氾濫した、あざやかな地だ。市場には香辛料の詰まった麻袋の山々。道の両側から次々とさしだされる絞りたての果汁。ある果実は刺だらけの真っ赤な皮の下の白い果肉に芳醇な香りと味わいを秘めている。ある果実は三文芝居の役者のかつらみたいな房毛をかぶり、主食にもなるふわふわの黄色い果肉に滋養をそなえている。
活気のある市場通りで、漆黒の髪をごく短く刈った青年が人を捜して歩いていた。
一目で海の向こうから渡ってきたとわかる容姿だ。幾月と野ざらしを経たような荷袋を背負い、首筋に日除けの布の垂れた帽子を斜気味にかぶっている。
「肌は僕と同じ色で……、《二翼の大陸》の言葉を話しているかも……」
この辺りの言葉を懸命にあやつって、青果屋台の主人の注意を引く。
主人は片手に持った鉄色の小箱に向かって仕入れの注文をまくしたてている。《黄金の大陸》の人々は皆この箱を一つずつ持っていて、遠く離れた人間といつでも自由自在に会話を交わすことができた。
「すみれ色の瞳をしているんです。すみれ……この大陸では〝ユウガタノイロノ花〟って言う、その花の色です」
黄金色の腕を剥きだしにした主人は、もの珍しい異人に戸惑った表情を返すばかりだ。大陸東部のこの辺りでは、まだ先遣のラファタル人すら一人も訪れた例がなく、青年の肌の色はそれだけでも奇異の目で見られる。
《黄金の大陸》にそそぐ太陽の下を旅してきた青年の肌もだいぶ焼けているのだが、この大陸の人々の地肌の色と比べられるものではない。
「話を聞いたことはありませんか? 女の子です。異人の、娘……」
そのとき、通りを挟んだ織物屋の店先で水煙草を吸いながらのんびりと問答を眺めていた白髪の老人が、ふいと立って寄ってきた。
訛りの強い早口で何事かまくしたて、南にひろがる丘陵のほうを指す。
――子供らぁの
かろうじてその単語だけ拾えた。
「丘? 丘に行けばいいんですか?」
老人が鷹揚に頷いているので、リュクルスは礼を言って南側へ身をひるがえした。
人波をぬって駆け抜ける。
その一歩一歩は、辿ってきた距離に比して、とても小さい。
大陸は広くて、広すぎて、たった一人の人を捜し当てるのは、星空に落とした砂金を拾うようなものだった。この大陸で初めて目にした飛行船も、鉄道も、目的地の知れない旅にとってはシーノンまでの距離を縮めてくれる道具とはならなかった。リュクルスはどんな手掛かりも洩らすまいとして、身を惜しまずにあらゆる噂を追った。白い肌の異人の噂を辿っていくと、噂はただの噂であったり、病によって肌の色素を失っている人だったりした。
それでもリュクルスは、あきらめなかった。彼にはわかっていた。同じ星並びの日にこの世に生まれ落ちたあの娘は、けっして、まだこの世から消滅してなどいない。彼女はいまも、彼と同じ世界に生きている。魂がそれを知っている。ずっと長い間、彼女の魂の一部によって生かされていた彼の魂が。
体力を奪う直射の日差しの下で、こめかみに粒の汗を浮かべながら、リュクルスは駆けた。
首から提げる革紐に吊るした、銀の指輪を握りしめて。
半年前。
《黄金の大陸》中央部に栄える一大交易都市の古道具店でリュクルスは、偶然その指輪を見つけた。輪の内側にペンツェラルゼ語で、〝ミヒャイの壷焼きシチュー〟と刻まれている。リュクルスがシーノンの指に嵌めた指輪だ。
シーノンは《黄金の大陸》に、いる。
リュクルスは確信を深めて、未到の地から地へと、しらみつぶしに渡る旅をつづけてきた。
いまのリュクルスに翼はない。彼はただの人間だ。
大地を踏みしめる人間だ。
愛する人をふたたび抱きしめるために捜し求める、ただの、一人の人間だった。
他人の心の中を読む力ももうない。
けれど、だからこそ彼の心の中には、希望があった。
信じるか信じないかは、自分の心が決めることだ。
市場通りが途切れ、木造りの民家が立ちならぶ町の周縁を抜ける。道端にはみでた牛が、ひなたぼっこして皮膚を消毒していた。
さほど人家から遠くないところに植物の密集した森が迫っていた。聞いたこともない、奇声じみた鳥の声が密林の奥で響いている。なだらかに勾配のついた手前の丘陵地は密林との緩衝地であり、その丘は家畜の放牧地ともなっていた。
リュクルスは汗を拭いながら丘を登っていった。
丘から眺める街の景色は、ベルーナスのそれともだいぶ違う。建物はすべて平屋建てで、それはどんな大都市においても変わらぬ景色だ。
この大陸の人々はおしなべて穏やかで、国という囲いを作らず、豊かに自然を残しながら暮らしていた。彼らは都市同士争うこともなく、かといって不便な生活に甘んじることなく、様々に科学の技術を発達させた人々で、自治のしくみにも成熟した賢さが見られた。彼らと同じ賢さを持たないかぎり、完全世界の扉がひらかれなかったのは、《一極》の計画のうえで当然だと思えた。レタレース大陸の人々ものんびりと豊かで賢いが、彼らは船や科学技術を持たない。
丘の頂に小さな集落が見えてきた。
「おねえちゃん、うみのむこうのおおきなくにのおはなしをしてー?」
がやがやと子供の声があふれる小さな家があった。戸口は開け放たれていて、落ち着かず駆けまわる子供たちの姿が垣間見える。
「海の向こうの大きな国には、いろんな人が住んでますですよ」
「えらいひともいるー?」
「偉くてちょっとだけ怖い皇子様がいましたよ。でも、根はとっても優しい皇子様です。あんなにさりげなく優しく膝に毛布をかけられる人は、誰かのつらさに心を添わせたことがある人。どうにもならないもどかしさを経験したことがある人」
息を切らせたリュクルスは、戸口の脇の板壁に背中を預けて、地面にやっとで腰を落とす。
吸っても吸っても追いつかないほど息が切れた。
「おねえちゃんは偉くて怖いひとが好きだったの?」
「まさか! シーノンの好きな人は、ずっと昔からリュクルス様だけですよ!」
「またりゅくるすー。りゅくるす飽きたよー」
「飽きるなんてとんでもないッ」
「あーきた! あーきた! あーきた!」
たちまち合唱がはじまって、なだめようとするシーノンの声も子供のはちゃめちゃな嬌声に掻き消される。クモの子を散らすように、戸口から室内遊びに飽きた子供たちが飛び出てきた。
彼らが手に手に持って夢中になっている平たい小箱の中から、楽団もいないのに音楽が流れてくる。あの箱の中に、動く絵世界が詰まっている不思議さにも、リュクルスはもう慣れてしまった。
「おにいちゃん、だれー?」
とことこと出てきた小さな女の子が、切りそろった黒髪のさらさらと揺れる黄金色の首をかしげてリュクルスを見上げた。女の子の足元に、純白の綿毛に手足のついた、顔のない小さな生き物がぱたぱたと綿毛をそよがせて寄り添っていた。
「それを聞いたらがっかりするよ」
登場する前から飽きられているリュクルスは、苦笑いしながらそう答えた。傍らの荷袋をまさぐって、手がけている途中の木片と小刀を引っ張り出す。
「それなにー」
「林檎と剣っていう遊びだよ」
荷物の中から林檎のかたちに削った玉を取りだし、糸を通し、剣のかたちのもう一つに結びつけた。ぶらんとつるした林檎の虫食いのように穿たれている孔に、剣先を突き刺して遊ぶ木製の玩具だ。
「やってごらん」
路銀を稼ぐための細工品は、子供たちの興味をあつめ、たちまちリュクルスの周りに好奇心の輪ができる。
小さな家の戸口の脇にかけられたブリキの板には、《黄金の大陸》で《一極》を表す太陽の印が刻まれていた。ここは信仰者の建てた保育所だった。各街に同じような施設はあって、就学前の児童や、里親が見つかる前の孤児を預かる役目をもつ。
「シーノンらしいよね……」
身寄りのない小さくて弱いものを放っておけない、彼女らしい。
身寄りがなくて小さくて弱かったのは、いつかの彼女だって同じだった。
「みんな、密林に入っちゃだめですからねー! 入った子は、ぺんぺんですよぺんぺん。ロッコの羽でお尻をぺんぺ、ん……」
戸口に出てきたシーノンは言葉をすぼませ、失った。
病がちな少年の面影をほとんど失くして、精悍な放浪者の顔つきになっていたとしても、シーノンが、彼を見間違えるはずがない。
「……」
「こんにちは。紹介状だとかは持っていないですが、何か手伝えることがあったら、僕を雇ってくれませんか。他に行くところはないんです」
出会いをやり直すリュクルスの上に、シーノンが崩れてきた。
懐かしいひっつめあたまを胸に抱いて撫でながら、リュクルスは旅の終わりと新しい日々のはじまりを、《一極》に感謝していた。
「リュクルス」
やっと顔を上げたシーノンは涙でぐちゃぐちゃだ。
「シーノン、手を出して」
ちょっとでも二人の身体が離れるのを怖がるように、おずおずとシーノンが、黄金の陽射しで真っ赤に染まる手をさしだした。
微笑みが二人の思い出を確かめあわせた。
愛する働き者の手に、リュクルスは永遠に結ばれる恋人たちの指輪をはめた。
〈おわり〉




