④
雨がやんで、外が夕飯前の穏やかな薄闇に染まる頃――俺は意外な場所で岬を見つけた。
振り出しに戻った小講堂。
前から2列目の座席に――岬はポツンと座っていた。
完全に日が落ちてしまっていたら、きっと闇に溶け込んで見つからなっただろう。
かすかな息遣い。
消えてしまいそうなほど静かなシルエット。
俺は岬を見つけた安ど感と拾うから、小講堂に飛びこむなり床に座り込んでしまった。
「遅いじゃないか――」
俺の顔もろくに見ないまま、岬は呟くようにそう言った。
「どうしてこんなとこに……?」
「どうしてだと?オーディションを見に来いと言ったのはお前だろ?――なのに出てきやしない」
岬は左手に、俺の書いたメモを握りしめていた。
「それじゃ、ずっとここに――?」
いたんだ――。
奇跡は俺の知らないところで起こっていたんだ。
「嘘吐き」
ようやくこちらに向けられた目は、光を失い疲れきって見えた。
俺の胸元にささったままの小さな薔薇が、力尽きるようにカクリと折れた。
「嘘吐き」
岬は小さな声で繰り返す。
俺はその薔薇の手に、膝をついたまま岬の側へと近づいた。
「ごめん」
片手を岬の頬に当て――。
首の折れた薔薇を差し出した。
岬は咄嗟に身を引こうとしたが、しおれた薔薇を見てどうにも抗えない自分の運命を感じ取ったかのように、力なく頭を垂れた。
「なんで謝るんだよ……だからお前は嫌いなんだ」
薔薇に似た唇が震え、細い指先が弱った花びらを乱暴にむしりとる。
「岬……」
俺は開きかけた口を閉じた。
岬の涙が、俺の手の甲を伝って流れ落ちたからだ。
「――助けて」
声にならない声で岬は言った――。
岬は屋上から自分の記事をばらまいたことは認めたが――。
理由は言いたくないと言った。
室井が病院に運ばれた件は知らないようだった。
蒼井さんに聞いたとおり話すと、うつむいて黙り込んでしまった。
それでも、俺は救われた気がした。
少なくとも岬が室井に怪我を負わせたのでないなら、逃げ隠れする必要はないはずだ。
「俺てっきりお前がやったんだと思って……。こないだあんなことがあったばっかりだったしさ……」
一週間前の光景がつい先日のことのように、思い出される。
「――僕じゃない」
言葉を濁す俺とは対称的に、岬はきっぱりと言い切った。
「僕はやってない」
だが、相変わらずその顔には雲がかかったままだった。
岬が何を思って自分がカストラートだと分かるような記事をばらまいたのか。
どうして部屋にも戻らずこんなところに座っているのかは、依然謎のままだった。
「ねえ、さっき助けてって言ったけど……俺は一体どうすればいいのかな?」
だから率直に聞く他なかった。
「この記事が原因でお前が苦しんでるなら分かるよ。誰にも知られたくなかったって言うなら、俺は今から全校生徒かき集めてでも、これはでまかせだって釈明してやるさ」
でも――。
「でもお前は……自分の手でこいつを何百枚とコピーして屋根の上からばらまいたんだぜ? 俺は、どうすればいい?」
既に日はとっぷりと暮れ、濡れた体はどんどん冷えてきていた。
手を握れるほど近くにいる岬の表情さえもうほとんど分からない。
かろうじて、潤んだ瞳が光って見えるだけだった。
「僕は真実を伝えたいだけだ――」
隣に並んで体を震わせる俺に、岬は唐突にそう言った。
「え?」
「でも、残念ながらこの記事は真実じゃない」
「分かんないな……。つまりお前は、カストラートじゃないってことか?」
岬は深いため息を漏らした。
的外れな俺の問いかけに、少しいらついているようだった。
「あんた、僕の歌を聴いたろ? だったらどうしてそんなこと言えるんだ?」
「いや、だって……」
聴くには聴いた。検証だってした。
それでもいまだ信じられないのだ。
当然だろう。
俺の中でカストラートは、幼い日に潮田のおっさんから聞いた中世の夢物語に過ぎない。
少なくとも、自分の隣に同じ制服を着て座っている相手ではない。
「じゃあ、お前の言う真実ってなんだよ……?」
俺は岬の核心に触れたかった。
常に岬を悲しませているものから、時折見せる爆発的な怒りや狂気の根本から、岬を救い出してやりたかった。




