アナリーゼ・分析 1
岬の歌を聴いたあの夜以来、俺は夜な夜な音楽室に通い続けていた。
楽譜を返さなきゃいけないから迷惑してるんだなんて、佐伯にはもっともらしくうそぶいて見せたけど、ヤツは笑顔で俺を見送るだけだった。
薄気味悪い夜の学校に通いつめて4日目のことだ。
いつもどおり学校の裏門を跨ごうとした俺は、意外な人物に出くわした。
「何度寮から脱走するつもり?」
驚いて、門の上から真っ逆さま。
派手に尻もちをついた。
「蒼井さん!」
俺が情けない姿を晒した相手は、寮長の蒼井さんだった。
「彼なら来ないよ。今日はお父様と食事に出かけたから」
「どうして……」
佐伯のヤツか、と舌打ちする俺を見透かしたように蒼井さんはにっこりと笑った。
「誤解しないで。悠人が自分から言ったんじゃないよ。僕が気になって聞きだしたんだ」
差し伸べられた手につかまり、俺はどうにか身を起こした。
「怪我しなかった?」
「俺の後つけてきたんですか?」
「ごめん。途中で追いつくはずだったんだけど、結城くん足が早くてさ」
蒼井さんは分が悪そうに何度も俺に詫びる。
「ここの夜道は怖いから自然と早足にもなりますよ」
投げやりにそう言ったものの、自然と笑いが込み上げてきた。
「ねえ、よかったら寮に戻って少し話さない?外は冷えるよ」
品のいいセーターの袖を擦り合わせながら、蒼井さんは俺を部屋に誘った。
コーヒーの香ばしい香りが部屋に満ちる。
「1人部屋なんですか?」
「そうだよ」
「もしかして蒼井さんも主席?」
「1年生の時ピアノ専攻でね。その後は特別クラスに入ってるから」
「特別クラスって?」
「指揮者を養成するクラスだよ。総括して音楽を学んでる。授業量はみんなの2倍はあるから、専攻してるのはほんの数人だけだけど」
「すげえ、将来のマエストロか」
俺は特権によって備え付けられた座り心地の良いソファーに腰を下ろした。
モダンなコーヒーカップを2つ持って、蒼井さんは俺の隣に並んだ。
「もしかして、ブラックじゃ飲めない?ミルクも砂糖も置いてないんだ」
なかなかコーヒーに手をつけない俺を、心配そうにのぞきこむ。
「そんな子供じゃないよ」
「だったら遠慮しないで。なんかね、寮生を叱るためじゃなく部屋に招くのって滅多にないから変な感じだ」
「俺もこういう席で怒られないのは変な感じ」
正直コーヒーは苦手だったが、マエストロにお茶を淹れさせてしまって飲まないわけにはいかない。
「――美味しいです」
「よかった」
蒼井さんはおもむろに立ち上がると、大型ステレオにCDをセットした。
会話の邪魔にならないかすかな音で流れてきたのは、ビバルディのアリア。
聴こえてくる歌声に、俺はドキリとする。
カウンターテナーの歌声を知らなければ、性別の判断もつかないだろう澄んだソプラノ。
俺は反射的にあの日聴いた岬の歌声を反芻していた。
「彼、いい声でしょ?最近お気に入りのカウンターテナーなんだ」
蒼井さんの目が、じっと俺の反応を見ているようで緊張する。
「そう、ですね」
「ファルセットを感じさせないすごく自然な感じだと思わない?」
「まあ……。俺にはあんまし分かんないですけど」
俺はようやく手に持ったカップをテーブルに戻した。
手に汗をかいていた。
「謙遜しないで。君の耳は確かなはずだよ」
蒼井さんはギリギリまで俺に近づいて、内緒話をするように声をひそめた。
「――君が聴いたのは?」
「……え?」
「岬恵介の歌は、どうだった?」
俺はあからさま戸惑った。
蒼井さんは俺から何を聞き出そうとしているんだろう?
こないだ佐伯が言ってた。
蒼井さんは岬が声楽専攻からピアノ専攻に移る原因となった合唱コンクールで、彼の歌を聴いたって――。
もしそれが、俺が聴いたのと同じものだったとしたら――。
「結城くん、そんな顔しないで。まるで僕がいじめてるみたいだ」
俺が押し黙ったままでいると、蒼井さんの方がよっぽど困った顔して口火を切った。
「君がこの学校に来た日のこと覚えてる?裏庭でもめてた君たちを僕がここから叱りつけたこと。あの日どうして室井くんが岬恵介を追いかけていたか――その理由は知ってる?」
「あいつは岬にピアノ専攻の主席を奪われたのが気に入らなくて、事あるごとに岬に絡むんだって……佐伯が言ってました」
「それも一理あるけど」
「違うんですか?」
「じゃあ、岬くんがどうして声楽専攻からピアノ専攻に移ったかも知ってる?」
「いえ……知りません」
俺は蒼井さんの口からその話を聞き出そうと、あえて何も知らないフリをした。
蒼井さんは特に気にする様子もなく、しごくリラックスしてコーヒーを口に運んでいた。
「僕はね、結城くん。科学で証明できないものには否定的な人間だけど、自分の勘はけっこう信じてるんだ」
突然の話題変換。
ゆったりとした動作が、俺の心をかき乱す。
「君はこれからこの件に深く関わる人間になる気がする――」
「この件て……?」
「だからもう1度聞くよ。岬恵介の歌はどうだった――?」




