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曲が山場に差し掛かり、これ以上ないソプラノが俺の耳を貫いた。


ミサキ姫がマリアの名を呼ぶ度、俺の膝は立っていられないほどに震えた。


彼は苦しみもがきながら、差し伸べられたマリアの御手にすがっている。


いっそ、耳を潰してしまえたら楽なのに――。


気がつけば俺はすっかり正気をなくし、泣かされている感覚など微塵もないまま、ボロボロに泣いていた。


痛々しくも荘厳な、圧倒的な歌声。


思考のすべてが停止する――。


あふれる涙で視界が閉ざされ、俺は聴覚以外の体の感覚すべてを失った。


残された聴覚すらもう、張り詰めた高温の世界にとらわれ、既に自分の物ではない――。


神の手の中に堕ちて行く幼子のような声で、彼は消え入るように囁いた。


アーメン、アーメン。



歌が止むと同時、俺は傾斜になった教室を転がるように駆け下りていた。


涙も鼻水も垂れ流したまま自分に突進してくる男を見て、ミサキ姫はひどく驚いたに違いない。


飛びあがるように席を立つと、ピアノの椅子が大きな音を立てて後ろ向けに倒れた。


俺はお構いなしに、両手で彼をだきしめようとしていた。


普通じゃあり得ない。


だがミサキ姫の歌声が、とっくに俺から正気などかっさらってしまっていたのだ。


俺の手が細い肩に触れると、お姫様は大きく身を引いた。


「逃げないで!」


陶酔しきった俺は、震える声で口走る。


「お願いだから……」


陶器のような肌に柔らかな月の光を受け、ミサキ姫は弓型の綺麗な眉をしかめた。


彼も泣いていたのかもしれない。


瞳が黒水晶のように光って見えた。


良くできた彫刻みたいな鼻梁に、深い影が落ちる。


「1週間前、あんたに2度と構うなって言われた男だよ。覚えてる?」


しばらく無言で見つめ合い、俺は深呼吸してどうにか心を落ち着けた。


ミサキ姫は何を考えているのかまったく読み取れない複雑な顔をする。


どんな感情表現にも当てはまらない表情――しいて言うなら、イタズラしている所を見つかって呆然とする子供みたいな顔。


「俺はミュージカル専攻2年の結城丈児。ここに忘れ物してさ、取りに来たらあんたがピアノ弾いてて――それで」


なぜか素直に『歌っていて――』とは言えなかった。


ミサキ姫は何も答えず、複雑な顔つきのままうつむいてしまった。


「すごくよかった。ほら感動して俺、泣いちゃったよ」


陳腐な言葉しか出てこない。


だけど、なんて言えばいい?


会話の意志さえない高嶺の花は顔を上げてもなお、悲しい目で俺をにらみつけるだけだ。


「ごめん、邪魔する気はなかったんだけどあんたの歌――」


焦った俺がしどろもどろ歌の話に触れたとたん――。


「っちょ…!」


ミサキ姫は無言のまま、ピアノの上にあった楽譜を俺に向かって投げつけた。


そして――。


「ちょっと待って!」


そのまま音楽室を飛び出して行ってしまった。






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