③
ピースがほんの少しずれた、ジグソーパズルのみたいな違和感。
いやそこには明らかに、余分な1ピースが紛れ込んでいた。
月影。
墓場みたいな空席。
後ろから3列目の席に、どこかのバカが置き忘れた楽譜の入った封筒が見える。
時を刻む掛け時計。
夜風にそよぐ純白のカーテン。
そして――。
月明かりに照らされたグランドピアノの前に、ぽっかりと浮かび上がった人影。
「――!」
俺のシナプスで軋みが生じた。
ドーパミンが放出され、極度の緊張がある種の快感へと変わる瞬間だ。
目の前でピアノに向かっているのは間違いなく。
入学初日に俺の心を虜にし。
なおかつたった一言で木端微塵打ち砕いたあの氷の女王。
ミサキ姫だった――。
小さなため息の後、モノクロの細い指が静かに鍵盤に添えられた。
聴こえてきたのはショパンの『幻想即興曲』――。
肩から腕にかけての繊細なラインが軽やかに動くと、白いブラウスの袖が蝶のように膨らみ呼応する。
10本の指が絶え間なく鍵盤の上を舞う急速な出だし。
激しいタッチもごく華麗に、ミサキ姫は鍵盤を叩き続ける。
これだけ離れているのに――。
奇跡的なほど整った輪郭を照らし出す月明かりで、俺の目には長いまつ毛の影さえ見えた。
この1週間――片時も彼を忘れたことはなかった。
『2度と僕にかかわらないでくれ――』
あんな態度をとられたと言うのに、学校にいても寮にいても、俺は気がつくといつもミサキ姫の姿を探し続けていた。
あの日以来一度も顔を合わせる機会がなかったから――やっぱり音楽科の生徒じゃなかったんだろうって。
俺は半ば自分に言い聞かせるように、諦めていたんだ。
だけど、違う――。
基礎からしっかり身についたピアノの弾き方。
音楽と一体になる濃密な空気。
彼は間違いなく音楽科の生徒のはずだ。
およそ1分ほど続いた激しい旋律が、一転穏やかなメロディーへと変わる頃。
ミサキ姫は鍵盤を叩きつけるようにして続きを弾くのをやめてしまった。
俺の身体は硬直した。
このタイミングで声をかけなければ間違いなく怪しまれるだろう。
俺は忘れ物を取りに来ただけなんだし、正直にそう言えばいいんだ。
意を決して一歩踏み出したその時、椅子に身を投げ出していたミサキ姫が再びピアノに向かった。
固い表情で、今度はバッハの平均律。
科の有名な『アヴェ・マリア』のメロディーをゆっくりと奏ではじめる。
神聖で穏やかな音色と、柔らかく羽を揺らす2匹の白い蝶。
うっとりとその姿に見とれていた俺は――。
こうして奇跡の瞬間を目の当たりにすることになったのだ。
奇跡の瞬間。
バイオリンにも負けない、高く澄んだ歌声が劇場中に響き渡ったあの頃――。
俺もそう言われたことがあった。
天上に駆けあがるのはちっとも難しいことじゃなかった。
あの頃の奇跡の歌声は、少年期特有の、ただの自然現象みたいなものだったからだ。
だけど今俺が見ているものは――。
ピアノを弾いていたミサキ姫が、突然弾き語りで『アヴェ・マリア』を歌いだした。
瞬間――俺の全身は総毛立った。
その歌声は弾けたガラスのようにあたり一面に飛び散り、その場に居合わせた俺にも容赦なく突き刺さった。
一体何が起こったのか分からない。
ただ苦しくて心臓が止まりそうだ。
彼が絞り出す歌声は、オペラで聴く女性ソプラノよりずっと高く、ファルセットの倍ぐらいの声量があった。
耳の奥が痺れ、頭がクラクラする。
考える間もなく襲いかかる高音の嵐に、俺はただただ混乱し、その場に立ちつくすのが精一杯だった。
目の前に針先を突きつけられていながら、顔を背けることさえできなくなった気分だ。
ミサキ姫の歌声には、未知の恐怖と一体の美しい支配力があった。
まるで難破した船の、最期の叫びみたいに悲しい声――。




