②
「ウソつけ。お前あん時寝てただろ?善人ぶるんじゃねえ」
俺は佐伯を無視してシャワーを浴びる準備をする。
「いいや、お前の遠吠えみたいな歌で目を覚ましたから知ってる。たしかにあれには驚いたが、思ったほど悪くなかったぞ」
なんて言われたって。
今は佐伯の軽口にもバカなイタズラにも、つきあう余力なんか残ってない。
新しい1週間が始まったとたんこのザマだ。
さすがにへこむ。
「あいつはムカつくけどな……でも間違ったこと言ってねーし」
「つまんないなぁ。蜂蜜塗ろうぜ?」
「しつこい!風呂入んだからついてくんなよ!」
怒鳴りつけてやると、いじけた犬のような顔して佐伯は自分の机に向かった。
「いいさ。俺にだってやることはあるんだ」
蜂蜜を舐めながら、カバンから楽譜をとりだす。
文化祭で公演するミュージカルの配役を決める、オーディション用の楽譜だった。
今日の合同練習だって、本来俺が恥をかくための場ではなく、その予行練習の場だったのだ――。
「あぁぁぁぁーーー!」
財布をなくした時のように、俺の心臓が跳ね上がった。
「おいジョージ!なんの嫌がらせだ!」
驚いた佐伯が譜面に蜂蜜をこぼした。
「ヤバい!俺それ教室に忘れてきちゃった!」
今日の俺は室井とのセッションのダメージがデカすぎて、オーディションどころではなかったのだ。
配られた重要書類一式、音楽室の机に置きっぱなしできてしまったことを思い出した。
「なんだよ、どうせ明日も学校に行くんだ。朝取りに寄ればいいだろ?」
「ダメなんだよ、明日は早朝から清掃業者が入るって、教室に貼り出されてたろ?」
「知らん」
俺たちが学校へ行く頃には、楽譜は間違いなく焼却炉の中だ。
「取りに行ってくるわ」
「今から?」
「しょーがねーだろ」
「ついてってやろうか?怖いだろ」
「バカにすんなよ、1人で行けるわ」
「ふーん。んじゃま、気をつけて」
俺は制服にパーカーを羽織り、素足にスニーカーを引っかけた中途半端な格好で部屋を飛び出した。
時計はすでに夜の9時をまわっていた――。
俺はすぐに、佐伯の申し出を断った自分を恨んだ。
山道を下り、白亜の宮殿が目の前に迫ってくる頃には、あたりに人の姿を探し求めている俺がいた。
夜の学校は怖いものと相場は決まっているが――
ここはまた別格だ。
日本風なおどろおどろしさはないものの。
気味の悪い御伽の世界に引きずり込まれてしまいそうな、そんな不気味さがあった。
「うわっ……!」
突如目の前に現れた白い彫像の女に腰を抜かしかけながら、俺はどうにかアーチ型の裏門を乗り越えた。
心細い――。
不審者と間違われ、誰かが警察を呼んだとしても今なら大歓迎だった。
俺はできるだけそびえ立つ建造物を見ないようにしながら、目的の第3音楽室めがけて一目散に走った。
暗闇で底なし沼のように光る噴水の前を駆け抜け。
音楽室へ続く石造りの回廊まで転がるように辿り着く。
そこからはなんとなく忍び足で進んだ。
冷たい回廊を踏むスニーカーの足音が自分のものだと分かっていても、ただただ怖かった。
暗がりの中――教室番号だけを頼りに、俺は第3音楽室を探した。
「あった――ここだ」
幸い、中は外灯に照らし出され仄明るかった。
俺は重い防音扉を開いて、教室に身を滑り込ませる。
演奏の邪魔にならないよう造られた扉は、音もなくゆっくりと閉まる。
小型のホールを思わせる傾斜のある教室を、俺は一番後ろから見下ろす形で立っていた。
「ん……?」
しかし、なにかが変だった。
教室前方の窓が開け放たれ、白いカーテンがはためいている。
開け放たれた窓の向こうには、細い三日月が魔法の針のように輝いていた。