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◆◆◆
年月は緩やかに流れる。
少女は蕾を花開かせ、眩い美貌と、艶やかさを醸し出す年頃となった。
一族の男達の心を捕らえながらも、彼女の心を揺り動かす者はまだいない。
無邪気な蝶の如く、微笑みを浮かべ軽やかに人々の間を飛び回るが、捕らえようとするとふわりと身を翻す。
そして、凛とした様で、甘い言葉から逃れる彼女に溜め息を漏らす男は後を絶たない。
「鎮耶様、昇龍する御姿、拝見出来て嬉しゅうございました。」
小島の館での宴で、恭しく彼女は言う。
「朱璃に会えて嬉しいよ。 なんだ。
もう、兄様とは呼んで貰えないのか?」
ちらりと、隣りに並ぶ父母の姿に目をやり、
「私も大人になりましたので、気軽に兄様と呼ばせて頂くのも気が引けますもの。」
と、卒無く言った。
「淋しい気もするが、仕方無いか。
今宵の宴、楽しんでおくれ。ゆっくり話などしたいしな。」
にこやかに微笑み、一礼をし彼女は長の前から下がった。
二人が海底の宮で顔を合わす機会は、以前よりも減っていた。
幼い頃は父に伴われ、長の館に頻繁に出入りしていた朱璃だが、年頃ともなるとそう言う訳にもいかない。
別段、娘を家から出さぬと言う訳では無い。
只、龍の長の住まう館は、無邪気に遊びに行ける場所では無いのだ。
だからこそ、宮での宴や、他の結界での宴は、二人が昔と同じ様に話す事が出来る、楽しみの時間となっていた。
こっそりと抜け出し、散策をしながらの無邪気な会話を二人は大切にしているのだ。
格式ばった言葉使いを取り払い、無邪気な会話を交わす時間。
互いの取り巻き達も、本当の兄弟の如く仲の良い二人の邪魔などする筈も無かった。
爽やかな夜風が、松林を揺らす。
浅葱色の薄絹を身に纏い、朱璃の金糸が、月の明かりに照らされ輝いている。
「こちらよ鎮耶様!」
黒髪を背中で束ね、松林の小道から龍の長が姿を現す。
瞳の色よりも深い蒼色の涼しげな衣が、月明りによく映えていた。
「大分、遅くなってしまったな。
宴を抜けてから、ずっと外に出ていたのか?」
さくりさくりと白い砂を鳴らしながら、朱璃は砂浜を歩く。
彼女は鎮耶の側に寄ると、白魚の様な、白く華奢な握り拳をそっと差し出した。
「ほら! 綺麗でしょう。」
そう言って、開いた掌の上には桜色の貝殻。
そして、彼女は鎮也の手を掴み貝殻を半分程手渡した
朱璃の極上の微笑みは、人疲れした鎮也の心を和ませる。
別段、彼が長としての顔を使い分けているとは言い難い。
だが、掌中の珠とも呼ばれる彼女の存在は、やはり特別なのだろう。
今までにも、疲れを癒す恋人がいた時もあった。
だが、深い付き合いの女性も、年月が経っても伴侶を決めぬ鎮耶の心に不安を抱き、自ら去った者もいる。
彼自身、龍達の中で、魂の片割れと呼ばれる伴侶には、未だ出会ってはいないと感じていた。
長としての立場で妻を娶る事を考えながらも、己の伴侶との出会いには心惹かれるものもある。
「やはり…朱璃と過ごすのは気が楽で良いな。」
彼は掌の桜貝を指先で摘み、月光に翳す。
「お疲れね。鎮耶兄様…
いい加減、奥様を娶られれば?
安息の場所は探すだけではなくて、互いで造るものでしょう?
次に心魅かれ、側に居て欲しいと思う方と、一緒になれば良いのよ。」
「朱璃はどうだ?
心魅かれる者に出会えたのか? 」
鎮耶は、翳した貝殻を朱璃の手に握らせた。
「さぁ…どうかしら?
私は、まだまだ兄様よりも若いわ。
だから、男の方を見る目を、もう少し養ってからでも良いでしょ?」
おどけた口調で言う朱璃に、鎮耶は苦笑する。
「そうだな…
お前に愛しい男が現われれば、こうして話を交わす時間も無くなってしまうだろうしな。
それを考えると、しばらくはそのまま無邪気な朱璃で居て欲しいよ…」
「随分、都合の良いお話ね。」
朱璃はふぅと小さな溜め息を漏らすと、その場に座り脚を伸ばした。
「兄様も御座りになったら?砂が、とても気持ち良いわ。」
朱璃は、長の衣の裾を軽く引っ張った。
鎮耶は砂に手を着き、月を仰ぎ見た。
「たまには、一族の長から離れて、こうしてのんびり過ごす事も大切よ?」
朱璃は、白い砂の上に桜色の貝殻を並べる。
鎮耶も同じ様に、白い砂に桜貝を置いた。
鎮耶はその手を伸ばし、月明りに煌めく黄金色の髪を優しく撫でる。
「朱璃のお陰で、良い息抜きが出来たな…」
髪を撫でる鎮耶の手を取り、朱璃は大人の顔で微笑み、優しく言った。
「兄様、少し横になれば?
宴のお酒も残ってらっしゃるみたいで、とても眠そう。 さぁ、私の膝に頭をお乗せになって。」
朱璃は、鎮耶の腕に手を掛け、自分の膝を叩きながら促した。
「おいおい朱璃、幾ら親しくとも、年頃の娘の膝を借りるのはどうかと思うぞ?」
「私と鎮耶兄様の間に、そんな遠慮は要りません!
さぁ!どうぞ。」
ごく自然に、鎮耶の肩に手を掛け、自分の膝へ上半身を引き寄せる。
鎮耶の黒髪を優しく撫でながら、
「今は龍の長では無く、只の鎮耶様のお時間なの。
だから…少しだけ朱璃の膝で素顔のまま寛いで下さいね…」
滑らかな薄絹越しに、柔らかな肌の温もりが伝わる。
鎮耶が目を上げると、紫水晶の様な瞳が、優しく彼を包んでいた。
彼は、ふと、気付く。
何も飾らない本当の自然体の自分を。
かつての恋人達も安らぎをくれた。
それは、確かだ。
だが、付き合いが長く深まる程に、どこか切なく淋しげな瞳を彼に向ける。
どうしたと問えば、何もと返す。
しかし、鎮也は判っていた。
「……私を選んでは下さらないのね……。」
彼女達の、心に積み重なる呟きは、次第に瞳に滲み出るのだ。
龍の生きる時間は長い。
それを理由に、逃げている自分を感じなかったと言えば嘘になる。
「素顔の俺か…」
朱璃の温もりは鎮耶を和ませ、打ち寄せる波の音は眠りを誘う。
「昔とは逆だな。
前は、小さな朱璃を膝で眠らせていたのに…」
海と朱璃、夜空に月。
今、鎮耶の視界に有る物全ては、長としての緊張を解き放ち、有るがままの自分を受け入れてくれる。
鎮耶の頭の上では、朱璃が桜貝を指先で摘みながら、月に翳して微笑んでいた。
「柔らかな桜色が、月に映えてとても綺麗ね…
白い砂や、波に揺られるのを見ているのも素敵…」
他愛ない言葉を、次々と紡ぐ朱璃の唇。
睡魔が訪れる中、鎮耶は思った。
桜色の貝殻と、朱璃の唇はよく似ていると…
白い肌に、とても良く映える桜色の唇。
月光に煌めく桜貝。
月明りを受ける朱璃の唇。
そのどちらも、堪らなく愛しい。
意識が消えてゆく中、鎮耶はその桜色に触れたいと感じる自分に気が付いた。
極上の時間。
至福の一時に癒され、龍の長は束の間の休息に瞼を閉じる。
「…鎮耶兄様…?
……お眠りになったのね。」
声を潜め、鎮耶を覗き込み、寝顔に安心する朱璃。
「…愛しく思う方か…
私には、まだまだ判らない事で一杯。
だって、今は、兄様以上に向き合える方なんていないんですもの。
確かに、心許せると思う方もいるわ。
だけど…何かが違うのよ。」
朱璃は、取り巻き達を思い浮かべる。
皆、心映えも優れ、それぞれに秀でる物を持っている。
朱璃自身は高い身分だが、彼女は身分差を特に気にはしない。
話をしてみたい者がいれば、自分から声を掛け、時には討論を交わす。
誰とも真摯に語り合い、素直に耳を傾ける態度は生意気とは取られず、寧ろ好感を増してゆく。
その生き生きとした魅力は、皆が見惚れる麗しさと相俟って、更に彼女を輝かせるのだ。小さな溜め息が、朱璃の唇から零れ落ちる。
「皆の羨望と、憧れを一身受ける鎮耶兄様…
そんな方を間近で見過ぎて、目が肥えてしまったのかしら?」
小首を傾げて、朱璃は鎮耶の黒髪を撫でる。
鎮耶様を取り巻く、眩い女の方達。
妹の如く寵愛を受ける私には、大人の顔であの方々に応える鎮耶様が、遠い人に感じる時も有った…
でも…大人になるにつれて、私の前で見せてくれる素顔こそ大切だと思えるの。
誰も知らない長の顔。
私にしか見れない、鎮耶様の無防備な姿。
「鎮耶様以上の男の方か… その方も、こうして私の膝で眠らせてあげたいわ…
それまでは、鎮耶兄様専用にしておくわね。」
くすっと笑い、朱璃は限り無く優しい瞳で寝顔を見つめる。
まだ見ぬ番いの片割れとの時間も、この様に静かに温かく有ればと思いながら、彼女は目に映る全ての物に愛を送る。
命を与えられ、育まれたこの海。
白い砂浜と、夜空に煌めく月。
惜しみない愛情で慈しんでくれる我が長、鎮耶。
指先の桜貝に唇を寄せ、朱璃はそっと囁いた。
「なんて素敵な夜なんでしょう!……
我等が一族の長に感謝を…」
朱璃は桜貝を桜色の唇に重ね、それを鎮耶の唇へと近付けた。
彼の唇に軽く触れる桜色。
「まだ、夜が明けるまでには時間が有るわ…
ゆっくり眠ってね。
鎮耶様………」
鎮耶の寝息が、微かに指先に掛かる。
朱璃は、まるで子供を寝かせるかの様に、優しくゆっくりと、彼の髪、肩から背中を撫でてやった。
響き渡るのは、波の音だけ。
龍の長は只の鎮耶に戻り、優しい眠りに癒される。
昔から変わらぬ、朱璃の優しい瞳に包まれて………




