第16話
「ツバキ!ツバキ!」
ゆっくりと目を開ける。
私はデスクに突っ伏したまま、目の前の小さな時計を見る。
「寝すぎた……」
慌てて体を起こす。
「もう昼休憩の時間過ぎてるわよ。いつまで寝てんの」
「はいっ!」
声のした方を見る。
年の頃は五十ほど。ふくよかな体つきの女性。
この人はノアさん。私の上司だ。
この世界の。
あれから、3年が経った。
あの地獄のような、世界の終わりから。
目を開けたとき、隣に彼の姿はなかった。
私がこの世界に来たあの日。
広場の真ん中でひとり倒れていた私を、ノアさんたちが助けてくれたのだという。
歓迎会の途中で姿を消した新入社員の私は、あろうことかお酒に酔って広場で眠っていたと――そういうことになっていた。
この世界での私の物語は、そんな、嘘みたいなエピソードから始まった。
ここは私の生まれたところとは別の世界。
魔法の存在しない世界。
ここでは、電気の代わりに豊富な水を動力にしている。
水圧カートリッジというのが社会に浸透しているようで、思ったより近代的だ。
車や通信機器、PCぽいものもある。
私の持っていたスマホは相変わらず圏外を表示したまま、1日も持たず電池が切れた。
そのまま、私の部屋の奥底でひっそりと行く当てもなく眠っている。
「ツバキ。昼からの仕入れ少し手伝ってくれる?祭りだから急ぎたいんだよね」
先ほどの上司、ノアさんがこちらに手招きした。
「ええ~、午後から新しいホテルに納品だったのに」
「あらぁ。明日でもいいはずよね、それ」
ばれてる……
「はぁい」
私は苦笑いしながら、端末をシャットダウンし、駆け寄った。
この世界での私は、この大きな街の卸売店の配達員をしている。
元の世界で卸売業の事務をしていたおかげで、何となく勝手が分かったから、本当に助かった。
ノアさんの運転する車の助手席に乗って、街道を走る。
動力の関係で、町全体には水路が張り巡らされている。
ベネチアみたい、きれいな街だ。
この美しい街並みに、世界を渡ってきた人間が紛れ込んでるなんて誰が思うだろう。
「……で、あんたの運命の人は見つかったの?」
「ははは。全然です」
あの日以来。
私はずっと、彼を探していた。
納品をして回りながら、休日も車を走らせながら。
長期休暇をもらって、国外へも幾度となく足を運んだ。
来る日も、来る日も。
それでも見つからなかった。
何度も間違えて、違う人に声をかけそうになった。
もう、この世界にいないのかもしれないって、何度も思った。
だけど、諦めたら一生会えないような気もして、今日も行き交う人に視線をやり続けている。
「まったくもう。あんたそうやって、世迷言を言って縁談断りつづけて……いくつだと思ってんの!あたしみたいに、独身街道まっしぐらじゃない」
「いいんですよ。ノアさんは憧れの人ですからね」
3年だよ。まだ。
たった3年。
私は自分の胸に、そう強く言い聞かせた。
午後は思っていたよりも体力仕事だった。
今日の仕入先は大きな広場の近くの商店。
茶葉やら珈琲やらを、段ボール何箱分も車に積んでいく。
珈琲を見ると、胸がざわめく。
あの日淹れてくれた、温かい香りを思い出す。
つい、期待してしまうんだ。
近くにいるんじゃないかって。
癖みたいに店の中を探してみても、やはり彼はいない。
この街は水がきれいだから、珈琲のおいしい街としても有名。
だからもう、他の店にも何度も行って、見てはいるんだけど。
広場には、夕方からの祭りの準備で色とりどりの屋台やキッチンカーが並び始めていた。
今年は国外からの参加も数店あるらしい。
「あの、ノアさん……見てきていいですか」
額の汗をぬぐいながら尋ねる。
ノアさんは店主と話があるようだ。右手を挙げてオッケーと合図してくれた。
カラフルなテント。音楽。揺れる風船。食べ物の匂い。
楽しい祭りの気配。
期待半分で、ゆっくりと、横目で見るようにして歩く。
探し物というのは、望めば望むほど見つからないんじゃないかって。
そんな気もするから。
ひと通り、屋台を覗き終わった。
喉が渇いて、目に入った見慣れない珈琲店のキッチンカーで飲み物を買うことにした。
できていた列の、最後尾に並ぶ。
彼に会って以来、少しだけ豆にこだわるようにしている。
あの時ホテルで淹れてくれた珈琲の名前。
聞くのを忘れていたけれど、自分で調べてお店に通って、やっと名前が分かったんだ。
私は小さく息を吸ってから言った。
「あの、マンデリンありますか」
立派な髭を蓄えたキッチンカーの店主が、ニコニコしながら頷いた。
そう。マンデリン。
あの珈琲の名前。
魅力的な香り。
苦くて深くて、その後に残る、甘い余韻。
いけない。
また、思い出して、感傷的になってしまう。
ノアさんの分のアイスコーヒーも注文して、代金を置いた。
ちょっとだけ目が熱くなって、それを隠すようにうつむく。
しばらくして差し出された商品を受け取り、両手に抱えながら足早に店を後にした。
「ちょっと、マンデリンのお客さん!」
後ろからさっきの店主の大声がした。
「おつり!!」
あ。しまった。
「ああ、ごめんなさい」
ぼんやりしすぎたと、振り返る。
照れ隠しに、笑いながら戻っていく。
バタンと音がして、
キッチンカーの裏から、店主とは別の若い男性が降りてきた。
松葉杖をついている。
右足を上げて、こちらへ歩いてくる。
――え。
私の足が止まった。
心臓が強く鳴る。
声が出ない。
近づいてくる、その顔は……
似てる。
びっくりするぐらい似てる。
でも。
でも違ったらどうしよう。
涙でぼやけて見えない。
両手がふさがって、拭えない。
目の前で止まった彼の手が、そっと私の頬の涙をぬぐった。
「……おつり」
少し困ったように笑う。
「急ぎすぎなんだよ」
それは、ずっと、聞きたかった声。
見たかった顔。
「ほんとに……?夢じゃない……?」
涙が止まらない。
彼は、小さく頷いた。
「……待ったか?」
少し日に焼けたナギが、瞳に涙をためてほほ笑んでいた。
私は、小さく息を吐いて笑った。
「……遅いよ」
向こうから、ノアさんの声がする。
こっちに向かって歩いてきている。
世迷言じゃないって、やっと証明できそうだ。




