現在 仲吉紅耶
「仲吉、入るぞ」
コンテナをノックする音が聞こえると、ドアが開いて千緋色が入ってきた。
あちらこちらをガーゼや包帯で包まれている仲吉の姿を見て、千緋色は近づいてそっと手を握る。
千緋色の手はとても温かく感じた。紅耶は小さく「千緋色さん、ありがとう」と言って上半身を起こした。
「寝てなくてよいのか?」
「大丈夫ですよ、身体の傷は浅いですから。口の中は少々切れてしまってますが」
側に立っている白衣姿の女が言った。
「おぬし絲麻か? 女医とはおぬしだったのか」
「お久しぶりです社長、相変わらず聊兄がご迷惑おかけします」
「あ、ああ……そうじゃな。しかしおぬしのせいではないよ」
紅耶は千緋色の手を握り返すと、千緋色の眼をしっかりと見据えて「ごめんなさい。こんなんなっちゃって」と言った。
「私は、大丈夫だから」
このくらいで負けてはいけない。頑張るって昨日決めたばっかりなんだ。
暫く間をおいて、千緋色が「仲吉は強いな」と言った。
「そんなことないよ……きっとみんなに出会う前の私だったら全部投げ出していたと思う。ううん、もしかしたら生きてても辛いことだらけだって死んじゃってたかもしれない」
痛む口の傷を気遣いながら、紅耶は座ったまま千緋色に語りかけた。
「千緋色さん昨日も手を握ってくれたでしょ? なんだかとても温かくて、すごく嬉しかった。みんなのお陰で将来に希望を持っていいんだって思えたの」
紅耶は「変だよね、ついこの間会ったばかりなのに」と言うと続けて喋った。
「そしたらどうしても叶えたくなったんだ、弁護士になって、お父さんを――」
言いかけたことをつい引っ込める。つい勢い余って父親のことまで口走ってしまった。
「お父さん?」
「あ……うん。私のお父さんね、ヤクザなの」
ためらいはある。だけど、千緋色には話しておきたいと思った。言わないことがなんだか隠しごとをしているようで後ろめたさが付きまとう。そんな自分が許せなかった。
ずっと黙ったままの千緋色が気になり「ヤクザだけど、そんな悪いことはしてないの」と言った。
「……その、ね。風俗のお店とか……やってて」
「風俗?」
「も、もちろん悪いことはしていないよ!? だけど、ちょっと前から嫌がらせで警察に通報されちゃうようになってしまったんだ。一応、ヤクザだし、一度捕まるとなかなか返して貰えなくて……だから、私が弁護士になってお父さんを守ってあげたいって思ったんだけどね」
紅耶は勇気を振り絞り、難しい顔をしている千緋色に向かって聞いた。
「変……かな」
「変じゃな」
「あ……そ、そうだよね」
紅耶は思い切ってしたカミングアウトに、まさか即答でダメ出しが入るとは思ってもいなかった。
急に忘れていた全身の傷がちくちくと痛み出す。
千緋色と知り合ってまだ間もない。彼女のことはほとんど何も知らないと言っていい。そんな自分の中にある千緋色は彼女のイメージであって彼女自身ではないのである。自分勝手に《こんな人だったらいいな》と思って、変じゃないよって言ってもらえることを期待していたのだ。祐陽と同じように、自分の気持ちに応えてくれる、そう信じていたのだ。
「やっぱり、変……だよね」
しかし、だからこそダメージは大きかった。期待した言葉とは違う言葉が返ってきたのは、たとえ自分勝手な妄想が元だったとしても動揺を隠せないほどにショックだった。
「わらわはそう思う。しかしおぬしが変じゃないと思うのであれば、それはよいのではないか」
千緋色は続けて「誰かを守りたいと思うのであれば信念を持つことじゃ、他人に意見を反対されたからというような理由で挫けない、強い信念をじゃ」と言った。
「……どうじゃ、わらわの言ったことで夢を諦めようと思わんかったか?」
千緋色がニヤリと笑みを浮かべて言った。
「千緋色さん……もしかして意地悪したの!?」
あはは許せと言って笑う千緋色は、満身創痍の自分を憐れ見る態度ではなかった。でもそれが心地よく感じた。腫れ物に触るように下手に気を使われると心が押しつぶされそうになる。大変だったね、大丈夫? なんて悲痛な面持ちで聞かれると、ああ、私はやっぱり大変な目にあったんだと思い込んでしまう。
だからこそ、必要以上に気を使わないでくれた千緋色の言葉や態度が嬉しかった。
そして、四年前から笑わなくなったという鉄斎の言葉を思い出して、目の前で千緋色が笑顔を見せてくれたことにちょっとだけ自信がついた。家族同然の鉄斎さんにさえ見せなかった笑顔を自分には見せてくれたのだと思うと、少しだけ彼女の心に近づけた気がして嬉しかった。
「じゃがな、半分は本音じゃ。ヤクザを守るために弁護士になろうとは社会にとってはいい迷惑であろう。おぬしが父親のちからになるということは結果的にヤクザが活動しやすくなるということじゃ」
「そ、そうだよねやっぱり……」
「まぁ難しい問題じゃな。このジレンマは弁護士になったからといってずっと消えることは無い」
「ジレンマ?」
「そうじゃ、この世は善や悪の二つに分けて簡単に片付く問題ばかりではない。あっては困るが無くても困るというのが存在する。わらわの……黒銀家のようにな」
千緋色は一間おくと「後ろめたい気持ちがあるのであれば他の方法を考えてみるのも悪いことではない」と言った。
「おぬしの場合、父親に足を洗ってもらったほうが良さそうな気もするが……これはわらわが口出すするべきことではあるまい」
もちろん父親には普通でいて欲しい。できる事なら足を洗って欲しいとは思う。しかし、それが出来ないからこそ困っているのだ。
「出来ればやめてほしいと思っているよ。今直ぐにでも。だけど……色々しがらみがあるみたい。食べてもいけなくなるし、事務所のみんなだってどうしていいのかわからないし……まるで、」
紅耶は続けて「まるで呪いみたいだよ」と呟いた。
「呪いか……」
千緋色が入ってきた入り口とは反対側の扉が開いた。嶋馬だ。
「ああ! またぁ、社長。ボクに内緒で来るんだからぁ」
嶋馬は初めこそ真面目な顔をしていたものの、千緋色の顔を見るやいなやわざとらしく頭に手をやってのけぞって見せる。
「今からご説明に上がろうとしてたのに……ボクが社長を見つけられなくて右往左往するのを楽しみにしていたんでしょう? まったく、鬼畜だなぁ」
「無駄な話はよい。説明に来たならさっさと話せ」
「え、ここでですか?」
「仲吉にだって聞く権利があるじゃろう。他に問題でもあるのか?」
嶋馬は首をすぼめて見せると、椅子に座り机の上に書類を並べる。
「いえね、社長を立たせたままお話するなんて恐れ多いじゃないかと思いまして。あとでどんな鬼畜な仕返しをされるのだろうと思うと夜中にトイレにも行けませんからね」
「……言っていることが甚だおかしいではないか。わらわのことが気になるのなら、今おぬしが座っている椅子をよこせば良いであろう」
「あぁすみません気づかなくて! 実を言うとボク、昨日も一昨日も寝ていないんですよ。ずっと立ちっぱなしだったもんですから腰が痛むんですよね。で、やっと家に帰れたと思ったら、五分で来い! でしょ? いやぁボクとしたことがついうっかり座ってしまいましたよ。社長の椅子が無いのに気付かずに自分だけ椅子に座るなんてホント情けない」
嶋馬はわざとらしく腰をさすって椅子を指さし「ここ、座ります?」と聞いた。
「そ、そんなこと言われたらどけだなんて言えぬであろう……おぬしが座っておれ」
千緋色は「少し座らせてもらうぞ」と言うと仲吉のベッドの端に腰掛けた。
「それにしても、随分儲かっているようじゃな。連日徹夜とはさすがのおぬしとはいえ、そのうち体を壊してしまうぞ」
「そうかもしれません。でも……ボクを待ってくれている人たちがいると思うと、身体が勝手に動いちゃうんです」
嶋馬は目を細めると、口元に笑みをたたえて言った。
「あぁ、気にしないで下さい。友だちと飲んでいただけですから」
千緋色は無言で立ち上がると、棚に置いてあった包帯をとって嶋馬の後ろに回った。
「あれ!? ね、社長? まさか本当に鬼畜に……あっ」
千緋色によって椅子ごと体中を包帯で巻かれた嶋馬は、動くことが出来ずに「うーうー」と唸り声を上げた。
「こやつと真面目な話はできん。絲麻、代わりに説明してくれ」
「聊兄は腕はいいのですが、バカなのです。ごめんなさい」
絲麻は机の上の書類を手にとって眺める。一間置いてゆっくりと口を開いた。
「仲吉さんの怪我の具合ですが、はっきり申し上げまして……」
心臓の鼓動が早くなる。痛みは大したことないものの、直らない怪我を追っていたらどうしようかと、つい不安が過る。
「……全治一週間の怪我、といったところでしょうか、たぶん」
――たぶん?
「口の中の切り傷がやや深くて、一番大きな怪我です。たぶん」
まったくもってはっきり申し上げていない説明に、紅耶は不安を感じて千緋色を見た。
千緋色は「そうか、それだけか。大事に至らなくて良かったのう」と言う。
「絲麻はかなり細かい奴でな、少しの狂いも許せんのじゃ。たぶんなどと言っておるが、あの口ぶりからするとほぼ間違いなく一週間で治ると思って良い」
「え、でも……傷の大きさもたぶんって……」
紅耶の言葉に、絲麻は俯いて言った。
「私は外科専門ですから、体の傷はわかっても、心の中の傷の深さはわかりかねますので……」
絲麻の言葉で髪が無くなっていることを思い出す。そうだ、あの正体不明の男たちに引っ張られ、殴られ、ナイフかカッターかよくわからないもので髪の毛を切られたのだ。
そっと頭の後ろに手を回すと、先ほどまであったおさげに触れることが出来なくて急に頭が軽くなった気がした。長年連れ添った友を失ったようで、心にぽっかり穴が空いた気がした。
「髪のことまで聞いていなかったので、美容室コンテナは持って来なかったのです……切りそろえるくらいでしたらやりましょうか」
絲麻が言った。
「お願いしても、いいですか」
紅耶は続けて「美容室もあるんですか。すごいですね」と言うと、いつの間にか寝息を立てていたはずの聊が頭を起こした。
「いいでしょぉコンテナ病院。どんなところへも行けてサイズも機能も自由自在なんですから。いつでも呼んでくださいよ、社長のお陰で年中無休二十四時間営業ですからねぇ」
包帯の隙間から見える目が怖い。
「……みなさん何者なんですか」
「ここ嶋馬ケータリング病院は、もともと黒銀家専属の移動病院だったんですよ」
絲麻の話によると、黒銀家……とりわけ、千緋色のために作られた組織だという。生まれた時から身体の弱かった千緋色はことあるごとに救急搬送された。幼い子どもにとっては結構な負担だ。先代の当主、千草の計らいによって、どこに行くにも、どこからでも安心して診てもらえるようにと作られたのである。
「独立してからは鬼畜社長がお金を出してくれましてねぇ。理事長兼院長のボクが知らない間に大きくなっちゃってたんですよぉ……今日は怪我だけと聞いたんで三つのコンテナで来ましたけど、本気を出せば一万個以上のコンテナを合体させることも出来るんです。そこいらの大病院も真っ青の病床数に成るんですから、さすが鬼畜社長の考えることは鬼畜ですよ!」
嬉々として語る聊を尻目に千緋色が「もう黒銀専用ではなくなったからな、誰でも呼べば来てくれるぞ。もっとも、保険は効かぬし富裕層向けじゃから恐ろしく金はかかるが」と言う。
「……ここだけの話、上納金もすごいんですよぉ、鬼畜でしょう? 鬼畜社長の名前の由来なんです。内緒ですよ」
「聞こえておるぞ」
聊は「あらいっけね」と言いながら自分の頭を叩いた。その様子を見て千緋色は興味無さげに軽くあしらった。
「ところで仲吉、事件のことなんじゃがな……」
真面目な顔で千緋色が言った。言うのを少しためらっているのか、少し間が開いた。
「……セクシャルな話題とかあるのではないか」
唐突な質問に頭が真っ白になった。
絲麻は固まって微動だにせず、兄の聊は「社長、直球すぎるでしょ、セクシャリズムの継承者なんですかもしかして」と意味不明なことを口走っている。
「心配しなくていいですよ、鬼畜社長が思っているような鬼畜なことは……」
「うるさいな、今は仲吉と話しをしておるんじゃ。おぬしはちょっと黙っておれ」
わけの分からない聊の言葉を遮って、千緋色が言う。
「例えば写真とかじゃ。少し話を聞いたぞ。それが問題で警察も呼べなかったと」
写真……そうだ、あの写真を持って脅されているんだ。警察にチクってみろ、ばら撒くぞと。
「写真の話は本当だよ。ばら撒くって言われて、それで崎枝くんも手が出せずにあんな怪我させちゃって……」
総輔という男が持っていた写真、あれは父親の経営する風俗店に私が入っていくところが写されている。いつ撮られたものかわからないものの、恐らく忘れ物か何かを届けるために立ち入った時のものだろう。セクシャルと言われればセクシャルな話題で間違いない。
「でも、結局……最後は殴っちゃったけど」
「なんじゃと!?」
ぽかんと口を開けて呆けた千緋色に紅耶が続けた。
「崎枝くんが、もうこいつは我慢できないって言って殴ったの。そしたら仲間と一緒にどっか行っちゃった」
「何をやっておるんじゃあやつは……それではもう写真をばら撒かれているかもしれんのじゃな」
「……うん」
写真はもうばら撒かれているかもしれない。それでも、勇者様が助けに来てくれたような気がして、とても嬉しかった。
「その総輔という男は御坊山が連れてきたと聞いたが、見覚えは無いのだな」
「うん」
御坊山の口ぶりからして、本人が連れてきたのに間違いはないだろう。
「ヤクザの娘が同じ学校にいるのが許せないみたい。それでずっといじめられてて……」
暫く黙って聞いていた千緋色は「わらわはちょっと用事があるから失礼するぞ」と言って立ち上がる。
「おぬしは暫く休んでおれ。ここは医者付きのホテルみたいなもんじゃ」
「社長ぉ、ちょっと待ってくださいよ」
聊が出て行こうとする千緋色を止める。ドアを開きかけた千緋色はそのまま振り返って聊を睨んだ。
「なんじゃ、急いでおるのじゃ」
「いやね、今のお話にあった総輔なんですが……もしかして扶月総輔じゃないかと思いましてね?」
千緋色の表情が変わった。
「……どういうことじゃ、そんな偶然……おぬし、心当たりがあるのか」
「実は、ここに来る前にその扶月総輔と会っていたんです。怪我をしたということで呼ばれまして」
「場所は!? まさか、国千院高校じゃあるまいな」
絲麻が小さく「はい」と答えると、聊が「はっは! 当たったぁ!」と大喜びしている。
「どうりで五分で来られた訳か。酒を飲んでいたなどと嘘をつきおってからに」
小声で呟いた千緋色の声に気づかない様子で、聊が続けて言った。
「あれから一時間くらい経ってますが……コンテナごと置いて来ましたのでまだいるかもしれませんよ。向かいますか?」
「いや、いい。情報をくれただけで十分じゃ。これ以上はおぬしらが顔を突っ込むではない」
「千緋色さん、もしかして総輔という男、知っているんですか」
「知っているもなにも……仲吉、すまんがここはわらわに任せてはくれぬか」
千緋色は「まさかこんな近くにおったとはな」と言ってドアを開けた。足早に去っていく姿を、紅耶はただ見ているしか出来なかった。
「まぁーったく、久しぶりに呼んでくれたと思ったらすーぐいなくなるんだから」
聊は巻かれた包帯を外しながら言った。
「でも元気で良かったですよ、社長。四年前は突然すぎて、頭がおかしくなってしまったのかと思いましたが」
「あれは鬼畜社長だからできることなのよ。あそうかぁ、絲麻は千草様の時を知らなかったんだねえ」
「あ、あの……」
紅耶が恐る恐る声をかけると、「ああ、ゴメン。聞こえちゃった?」と言って聊がおどけて見せる。
「でもまぁ、キミも友達なら知っているんでしょう? 社長の千里眼」
「はぁ……でも、どうして私が友達だなんて」
「社長が他人のために私達を呼ぶことなんて、今まで無かったことですから」
絲麻は続けて「治療費もすでに社長から受け取っていますから。十分休んで下さい」と言った。
「ありがとうございます。でもその前に家に連絡しておかないと……」
紅耶は携帯を取り出すと電話をかけた。
「お嬢さん? どうしました、まだ学校のはずじゃあ」
「ヤスさん、ごめんなさい……色々あって、今病院にいるの」
電話の先からはヤスの意味不明な叫び声が聞こえた。紅耶はヤスが落ち着くのを待ってゆっくりと話した。
「私は大丈夫だから。うん、怪我は大したこと無くて……色々複雑だけど、移動する病院にいるの」
「移動する病院って……いや、まさかとは思いますが、名前はなんというのですか」
「え? えっと……嶋馬ケータリング病院……だったかな」
二度目の叫び声が聞こえた。
「お、お嬢さん……その病院をどこで……!」
「友達の知っているところみたい。今はその友達の家の近くに停まっているんだけど……そう、公園の近く。白金さんというの、」
紅耶が「白金千緋色さん、学校の友達なの」と言うと、三度目の悲鳴が聞こえた。
「どうしたの!? ヤスさん? 千緋色さんを知っているの?」
隣でやり取りを見ていた聊が、紅耶から携帯を借りて言った。
「あれぇ? もしかしてパティシエのヤスさんじゃないですかぁ。お久しぶりですねぇ、ボク、嶋馬です」
聊は続けて「社長は……千緋色さんは生きてますよ。死亡診断書を書いたボクが言うんだから間違いない」と言った。
生きているのに死亡診断書?
矛盾する聊の言葉を聞いて、思考がうまく働かなくなる。
電話を切った聊が「ヤスさん、ここに来るって」と言って笑っている。
「聊兄、いいんですか? ヤスに社長のことばらして」
「んんー、しょうがないじゃない。だってバレてしまったんだもの」
「みなさん、お知り合い……なんですか」
いつかヤスの言っていた、お菓子の好きな難しい顔をした女の子……。それってまさか。
「そう。みんな黒銀家にいたんだよぉ。いやー世界って狭いねぇ」