第一章① ルキフェルとジャスパー
*偉人の言葉
海賊は勇気を持って富を奪う者たちだ。
自由の精神を持つ者たちの兄弟団として、黒旗のもとに航海する。
——サミュエル・ベラミー(Black Sam Bellamy)
サン=ジャン=ド=リュズの港が視界に入ると、甲板は一気に慌ただしい空気に包まれた。
港の穏やかな波が船底を軽く揺らし、帆が風にそよぐ音、ロープの軋む音、甲板を行き交う船員たちの声が混ざり合う。港沿いには白壁の建物が並び、庭先には色鮮やかな花々が揺れている。リゾート地らしい華やかさと、港特有のざわめきが同時に目に入った。甲板長が号令をかけ、船員たちは慌ただしく下船の準備に取り掛かる。
ルキフェルはしばらく甲板を見渡してから、自室に置いてきた名簿や指示書を思い出しつつ、ゆっくりと階段を降りて港に向かう準備を始めた。
ジャスパーはすでに船首側で甲板の様子を見張り、鼻歌を口ずさんでいる。フランソワ船団の三隻はそれぞれ役割を分け、港の岸壁に整然と並べられた。主力艦は中央に控え、補助の船が両脇に位置し、船員たちは慣れた手つきでロープを解き、積荷の降ろし作業を始める。戦利品や物資は種類ごとに分けられ、船体の傾きを考慮しながら慎重に移動されていった。
ルキフェルとジャスパーが甲板を進むと風が頬を撫で、潮の香りとともに遠くで子供たちの笑い声が混ざる。ジャスパーが目を輝かせて呟いた。
「ここも楽しい匂いがするな!」
ルキフェルは肩をすくめつつも、心のどこかで港の空気に少しだけ心が弾んでいた。
「休暇が始まる前に、まずは船団の動きを確認」
ルキフェルは言い、ジャスパーに軽く目配せすると彼はにやりと笑い、甲板で手早く作業を始める船員たちを眺めた。陽光の下、私掠船としての規律とこれからの自由な時間の入り混じった空気が二人を包んだ。甲板が港の波の揺れに落ち着くと、ルキフェルは船尾側の荷役用甲板へと向かう。そこには略奪で得た物資や食料、酒類が整理されずに積まれていた。彼は名簿を手に一つ一つの箱や袋の中身を確認し始める。
「まずは重量と内容を把握……。酒はここに、食料はあそこ……。水夫ごとの権利分を計算すれば、余りは他の艦に回せるな」
ルキフェルは紙に細かく計算を書き込みながら、舌打ちを混ぜつつ独り言のように呟く。
「……やっぱり遊ぶやつの気持ちがわからねえ。俺なら、こんな量で喜べるか?」
計算を終えるとルキフェルは甲板を歩きながら、船員たちを呼び集める。
「全員、こっちに来い。戦利品の分配を行う」
船員たちは列を作り、ルキフェルは手元のリストと照らし合わせて順番に報酬を渡していった。小麦や塩、保存食、ワインやジュースなど、それぞれの権利分を確実に手渡す。水夫たちは手に入った品を抱え、互いに顔を見合わせて喜びや軽い不満を漏らした。
「俺、ワイン多めだな。ありがてえ!」
「ちょっと、塩が少ないぞ、クォーターマスター殿」
ルキフェルは眉を寄せつつも、手を止めずに分配を続ける。彼の表情には面倒臭さと責任感が同時に滲んでいた。
「次はジュース……ああ、ジャスパー。お前の分は全カットな」
ジャスパーは肩をすくめて笑い、軽口を叩きながら手伝おうとする素振りを見せる。ルキフェルは目を細め、ちらりと彼を見た。
「まあ、お前が楽しむならいっか」
全ての分配を終えると、船員たちは手にした戦利品を抱えて甲板に散らばり、それぞれが港の賑わいに吸い込まれるように動き出す。ルキフェルは名簿をたたみ、港の景色を見渡しながら小さく息をついた。
「よし、これで一応は秩序も保てたな」
ジャスパーが隣でにやりと笑いながら言った。
「クォーターマスター殿、やっぱりお前って有能だな!」
ルキフェルは港のざわめきと波の音に耳を傾けながら、次の仕事に思いを馳せた。岸壁沿いの市場や倉庫では既に活気が戻りつつあり、遠くの酒場からは笑い声や掛け声が聞こえてくる。ルキフェルは甲板に立ち、船を降りた船員たちを見渡していた。ジャスパーも彼の隣で肩を揺らしながら、嬉しそうに手を振る船員たちを眺めている。
「おれたちの分はないけど、みんな楽しそうだな」
ジャスパーが小声で呟く。ルキフェルは軽く口角を上げ、船上の秩序と自分たちの役割を思い返した時、船長室の扉が静かに開いてフランソワがゆっくりと現れた。手には貴族の紋章印が押された封筒を握っている。
「じゃあ、俺は貴族連中の元に向かわせてもらう」
フランソワは言いながら封筒を軽く振り、穏やかな眼差しで二人を見下ろした。
「お前たち二人は、この船を守れ」
ルキフェルはわずかに身を正し、ジャスパーも肩をすくめながら「了解だぜ」と元気に答える。フランソワはタラップを渡って桟橋に降り立ち、周囲の喧騒に目を走らせた。港の空気は潮の香りと人々の活気に満ち、遠くには市場の屋根や倉庫の屋並みが見える。フランソワは視線を上げてルキフェルを見つめた。
「ルキフェル。港を彷徨いてもいいが、顔は隠せよ」
ルキフェルは少し眉をひそめ、苦々しく返した。
「分かってる」
言葉とは裏腹に胸の奥では自己嫌悪が渦巻き、これから迎える孤独の時間に押し潰されそうになっていた。フランソワは彼の様子に気づかぬまま、桟橋の先へ歩を進める。潮の香りと人々の声に包まれながら、彼は港の向こうへと立ち去っていった。
船尾。ルキフェルは腕を枕にしてごろりと寝転がっていた。潮風が心地よく吹き抜けるが、動きのない時間は退屈で仕方がない。彼の隣でジャスパーも仰向けになり、腕を組んで天を仰ぐ。
「……休暇って、こんなに辛いもんだっけ?」
ジャスパーはぽつりと呟いた。
「おれ、やっぱ動いてる方が好きだな」
ルキフェルは目を細めてジャスパーを見返す。
「動く方がって……甲板掃除とか、見張りとか?」
ジャスパーはくすくすと笑った。
「そう! 動いていると、生きている感じがする。暇なのは落ち着かねえ」
ルキフェルはため息をつき、空を見つめながらぽつりと呟く。
「……お前って本当、やることなすこと無邪気すぎる」
ジャスパーは肩をすくめ、にやりと笑う。
「そうかな? でもな、無邪気な方が海では生きやすいんだぜ」
ルキフェルは口元に笑みを浮かべた。
「……まあ、確かにお前の直感は役立ったし」
ジャスパーは得意げに胸を張る。
「へへ、そりゃどーも」
ルキフェルは腕を組み直して空を仰いだ。
「ほんと、すぐ調子に乗る」
二人の笑い声が穏やかな港の風に溶けていく。やがてジャスパーは身を起こし、手にしたロープを弄びながらぽつりと呟いた。
「それにしてもさ……おれとお前の取り分を全部カットって、やりすぎじゃね?」
ルキフェルは目を細めてジャスパーをちらりと見た。
「そう思うか?」
ジャスパーは肩をすくめ、にやりと笑った。
「少しくらい残しておけば良かったのに。おれたちも港で遊べたかも」
ルキフェルはため息をつき、果てしない青空を呆然と眺めながら応える。
「だって、こんな退屈だとは思わなかったんだ」
しばらくの沈黙のあと、ルキフェルは自嘲気味に小さく呟いた。
「あー……俺も、まだまだだな」
ジャスパーはくすくすと笑い、手元のロープを軽く投げ上げた。
「そういうとこだぞ、ルキフェル。だからこそ、まだ面白い」
ルキフェルは微かに笑みを浮かべ、再び空を眺める。ジャスパーはふと思い出したように声を上げた。
「なあ、今日も教えてくれよ」
ルキフェルは寝そべったままジャスパーを見やる。
「カスティーリャ語?」
ジャスパーは頷いた。
「そう。だいぶ分かってきたんだけど……やっぱりフランス語とごっちゃになっちゃうんだよな」
ルキフェルはわずかに笑みを浮かべながら突っ込む。
「おい、それじゃ単語も文法も混乱するに決まってるだろ。フランス語とカスティーリャ語、頭の中で合体したら大変なことになるぞ」
ジャスパーは悔しそうに舌を出して笑った。
「うーん、そうなんだよなぁ……でも、教えてくれたらちゃんと覚えるんだぜ?」
ルキフェルはため息交じりに口角を上げ、軽く頭を振った。
「まあ、教えてやるか……ただし、お前の頭の中が爆発しないようにな」
ジャスパーはポケットからメモ帳と鉛筆を取り出し、ルキフェルの横でメモ帳を広げ、カスティーリャ語の単語を書き写していた。ルキフェルは少し腕を組みながら、横目で彼の様子を観察する。
「なあ、ジャスパー。そんだけ頭が回るなら、なんで船乗りやってスリなんかしてたんだよ」
ルキフェルがふいに口を開いた。ジャスパーはメモ帳から顔を上げ、少し困ったように肩をすくめる。
「だって、陸にいてもつまんないし」
ルキフェルは呆れたように目を細め、軽く舌を鳴らしただけでそれ以上は突っ込まない。ジャスパーの表情には無邪気で飄々とした天性の自信が漂っていた。二人は再びメモ帳に目を落とし、甲板でカスティーリャ語の練習を続ける。ルキフェルは時折、ジャスパーの言い間違いや混乱に軽く突っ込みを入れながらも、どこか楽しそうに教えていた。ジャスパーはふと顔を上げ、ルキフェルの真剣な表情を見つめながら口を開く。
「なあ、ルキフェルだって賢いじゃないか。二つの言語、どうやって覚えたんだ?」
ルキフェルの眉間にわずかに皺が寄り、瞳に曇った色を帯びた。
「……思い出せない」
しばし沈黙が流れる。波の音と港の喧騒が微かに響く中、ルキフェルは甲板に目を落としたまま続けた。
「過去は捨てた。俺はもう、振り返ることさえ無駄だと思ってる」
ジャスパーは一瞬言葉を失い、少し困ったように眉をひそめるが、すぐに口角を上げた。
「……そっか。でもさ、おれはお前のこと、いつも見てるから」
ルキフェルは反応せず、黙って海を見つめ続けたが、やがて静かに立ち上がった。朝の陽光が帆に反射し、波間にきらめく光が彼の影を長く伸ばす。
「よし、今日も向き合うか」
ゆっくりと呼吸を整える。両足を肩幅に開き、手を胸前で合わせる。視線は遠くの水平線に据えつつ、心の中のざわめきに意識を集中させる。最初の一歩を踏み出すと木の板が微かに軋むが、ルキフェルは手のひらを円を描くように広げ、重心を左右に移動させながら体全体で呼吸の流れと調和させる。拳の軌道、足の踏み込み、体のひねりが焦りや孤独、自己嫌悪を受け止め、整理するための儀式のようだった。腕を大きく振り下ろすと過去の記憶が一瞬よぎるが、ルキフェルはそれに飲み込まれず、動作を途切れさせずに流す。視線を落とさず、心の奥のざわめきに抗うように自分を見つめ続けた。両手を広げ、ゆっくりと胸前に戻すとルキフェルは深く息を吐き、微かに目を細めた。甲板に漂う朝の風が彼の髪をなびかせ、心の中の波も少しだけ落ち着きを取り戻す。
「……よし、今日もやれそう」
ルキフェルは小さく呟くと横から視線を感じた。ジャスパーが甲板に座ったまま、腕を組んで首を傾げながら見つめている。
「なあ、ルキフェル……なんでそんなことやってるんだ?」
ジャスパーは目を輝かせ、純粋な好奇心を隠さない。ルキフェルは汗を拭いながら少し困った顔で答える。
「自分と向き合うためだ。動きながら、考えながら、頭と体を整理する」
ジャスパーは興味深そうに身を乗り出す。
「整理って……頭の中を片付けるってこと? おれもやってみようかな」
ルキフェルは口元にわずかに笑みを浮かべた。
「お前の落ち着きのなさじゃ、すぐに動作がグチャグチャになるぞ」
「うーん……でも面白そう」
ジャスパーは飛び跳ねるように立ち上がり、ルキフェルの隣に向かう。
「ちょっと教えてくれよ」
ルキフェルはため息混じりに手を差し出す。
「仕方ないな……じゃあ、まずは呼吸からだ。お前は息を吐き切るときに体の力を抜く。それを意識しろ」
ジャスパーは真剣な顔で頷き、ルキフェルの動作を真似しようとするが、すぐに腕や足の動きが暴走して、甲板の上で小さな笑い声とともに二人の影が波に揺れる。
「……お前、全然揃ってないじゃん」
「うるせぇ! でも、ちょっとは近づいた気がする!」
ルキフェルは眉をひそめつつも、内心ではジャスパーの無邪気さに微かな安堵を覚えた。
「……まあ、焦るな。少しずつだ」
ジャスパーは笑いながら再び動作を真似する。波の音と帆の風を感じながら、二人の甲板は静かながらも、ほんの少し温かい空気に包まれていた。ジャスパーがルキフェルの動きを真似している最中、横目でルキフェルを観察した。
「ルキフェル、ちょっと聞いてくれよ」
ルキフェルは呼吸を整えながら、ちらりとジャスパーを見た。
「なんだ」
ジャスパーはいたずらっぽく口角を上げる。
「お前さ……技術は完璧だけど、急なことが来たらガタガタするよな。防御特化じゃないから、不意打ちとか突発的な出来事に弱いっていうか……終わる可能性あるよな」
ルキフェルは一瞬顔を顰めたが、すぐに苦笑する。
「……お前、容赦ないな」
ジャスパーはにやりと笑った。
「見てて面白いんだもん。こんだけ完璧そうに見せて、実は一撃でバタリってなるかもしれないとか、リスクの塊じゃん!」
ルキフェルは舌打ちしながらも、内心ではジャスパーの鋭さに舌を巻いていた。
「……お前、俺を笑って楽しんでるだけだろ」
ジャスパーはケタケタと笑い、ルキフェルは小さく息を吐き、口元に微笑みを浮かべた。
「……まあ、お前が突っ込んでくれるおかげで自覚できる部分もある」
ジャスパーはルキフェルの動きを見ながら、にやりと笑う。
「なあ、ちょっと試してみるか」
ルキフェルは眉を顰めて警戒した。
「試す? 何を」
次の瞬間、ジャスパーは身を低く構えて飛びかかる素振りを見せ、ルキフェルの不意を突いた。ルキフェルは反応しようとしたが、ジャスパーの身長と素早い動きに翻弄され、バランスを崩す。
「うおっ……!」
ルキフェルは必死に踏ん張ろうとしたが、ジャスパーがふざけて肩で軽く押すだけで、あっさりと甲板上に転がった。波の揺れと相まって、ルキフェルはころころと数メートル転がり、甲板の端でようやく止まる。ジャスパーは息を切らせながらも、笑顔を絶やさない。
「ほらな、やっぱり弱点あるじゃん! でも安心しろ、痛くはしてないから」
ルキフェルは甲板に仰向けになったまま、髪をぐしゃぐしゃにし、悔しそうに舌打ちをする。
「……お前、絶対覚えてろ……次は本気で仕返しする」
ジャスパーは腕を組んで得意げにうなずく。
「楽しみにしてるよ。こうやってお前が転がる姿、意外と面白いな」
ルキフェルは立ち上がり、衣服を整えながら微妙に笑みを溢した。
「……馬鹿な奴だ、本当に」
ジャスパーはルキフェルの横顔を見ながら肩をすくめて言った。
「うん、お前はそうやって笑ってればいいんだよ。年相応に見える」
ルキフェルはじっとジャスパーを見返した。
「また馬鹿にしてるのか?」
ジャスパーは一瞬表情を引き締め、真剣な声で答える。
「いいや、馬鹿にはしてないさ」
ルキフェルが反論する間もなく、ジャスパーは続ける。
「お前、十六だろ? クォーターマスターなんか、その歳で務めていい立場じゃない」
ルキフェルの目が少し細くなるが、ジャスパーは笑みを浮かべず、真剣なまま続ける。
「お前はもっと遊べよ。働きすぎだし、真面目すぎる。もっと笑って過ごせ」
ルキフェルは少し戸惑いながらも胸の奥で温かさを感じた。
「……お前は相変わらずだな」
ジャスパーはにやりと笑い、ルキフェルの肩を軽く叩く。
「それがおれの取り柄さ。ほら、笑え!」
ルキフェルはふと苦笑し、ジャスパーを見やる。
「お前、いくつだよ。兄貴面してるけど」
ジャスパーは軽く笑って答えた。
「たぶん十八だ」
ルキフェルは首を傾げた。
「たぶん?」
ジャスパーは肩をすくめ、少し遠くを見るような目つきで言った。
「ガキの頃の記憶なんかよく覚えてないけどさ。なんか知らん家にいて、『これだけは忘れるな』って何度も聞かされたのが、このイヤリングと自分が生まれた日、あと年齢」
ルキフェルが眉を顰めると、ジャスパーは照れくさそうに笑いながら続ける。
「生きるために必要なんだって、なんか大人に聞かされたな。よく覚えてないけど」
ジャスパーの表情にどこか守られた気配が漂っていた。ルキフェルはくすりと鼻で笑った。
「はあ……お前、覚えてないことばっかじゃねえか。それで自分の年齢覚えてるって、どんだけ大事にされてんだよ」
ジャスパーは胸を軽く張ってみせる。
「そりゃあ、まあ必要だったんだろ。覚えとかないと生き残れないってさ」
ルキフェルは肩をすくめた。
「ま、お前らしいやり方だな。年相応に危なっかしい」
ジャスパーは目を細めて笑う。
「危なっかしいって、おれの十八年で培った勘だぜ」
ルキフェルは穏やかな視線でジャスパーを見た。
「まあ、お前の勘は確かだな。たまには役に立つ」
ジャスパーは顔をほころばせた。甲板の風が二人の間を通り抜け、少しだけ気楽な空気が漂った。ジャスパーはしばし港の方を眺めていたが、ルキフェルを見るなり、にやりと笑った。
「んじゃ、お前はちっとばかし遊んでこいよ」
ルキフェルは眉をひそめ、腕を組む。
「遊びって、何だよ」
ジャスパーは顎に手をやり、しばし黙って空を見上げた。
「そうだなぁ……」
その様子を見たルキフェルは内心で苦笑した。
——あれだけ真剣に考えてたくせに、具体的な案はないのか。
やがてジャスパーはルキフェルに目を向け、悪戯っぽく笑う。
「女、とかどうだ?」
ルキフェルは目を丸くし、思わず声をあげそうになった。
「おい、何言ってんだよ、まだ港着いたばっかりだろ」
ジャスパーは涼しげに笑う。
「ま、案のひとつってことで。無理にヤれって話じゃねえ」
ルキフェルは鋭い目つきでジャスパーを見返した。
「しょうもねえ」
ジャスパーは楽しげに肩を揺らしながら、軽い挑戦案を口にした。
「なあ、船を降りたらさ……女を一人引っかけて落とすってのはどうだ?」
ルキフェルは目を丸くして飛び上がり、思わず甲板を踏み鳴らした。
「……は? 無理無理、この顔でできるわけない!」
ジャスパーは首を振った。
「あのな、何も素顔を見せろってわけじゃないぞ」
ルキフェルが険しい表情で睨みつけると、ジャスパーは笑みを深めた。
「ルキフェル、お前は声が良いんだ。顔を隠して声だけで誘ってみろ。女はな、案外ミステリアスなやつに惹かれるんだ」
ルキフェルは思わず舌打ちをした。
「……馬鹿か、お前は。やるわけない」
だが、言葉とは裏腹に心の片隅ではほんの一瞬、どうすれば声だけで惹きつけられるのか疑問が浮かんだ。顔を隠しつつ、少し低めに、抑えた声で……いや、そんなことを考える自分は馬鹿だ、とすぐに頭を振って邪念を振り払う。ジャスパーはルキフェルのわずかな動揺に気づくと楽しげに口を開いた。
「お前さあ、強いくせして戦闘に出させてもらえない、そんで普段は常に船の長って……そんな息が詰まる
ような生活あるか? たまには羽目を外せ。フランソワだって港を彷徨っていいって言ってたじゃないか」
ルキフェルは一瞬、遠くの桟橋のほうに目を向けた。港の喧騒が、普段の規律と責任感に縛られた自分とは別世界のように感じられ、ほんの少し自由に触れられる可能性を考えずにはいられなかった。ルキフェルはぼんやりと眺め、ジャスパーの言葉を反芻した。
「自由に……羽目を外す」
普段の自分なら即座に否定していたはずだが、今日は何故かその言葉が耳に心地よく響く。ジャスパーはさらに挑発した。
「やってみろよ。声だけで女を惑わすってのも悪くないだろ? お前の声はな、案外、奴らを惹きつける力があるはずだ」
ルキフェルは唇をきゅっと結んだ。理性では「バカなことだ」と否定していたが、心の奥底で妙な高揚感が広がるのを止められなかった。こんなくだらないことに興味を惹かれる自分に気づき、少し苛立ちながらもジャスパーに目を向ける。
「……わかった。やってやるよ」
ジャスパーは満面の笑みで拍手し、ルキフェルは自分が完全に振り回されてしまったことを内心で認め、少し不機嫌そうに眉を寄せる。
「……ジャスパー、顔を隠せるやつ、あるか?」
「外套がある。貸してやるよ」
ルキフェルは一瞬、思案するように視線を落とした。顔を隠せば少しは自由に動けるが、それでも心の奥底で「こんなくだらない挑戦をやる自分」という羞恥が胸を締めつける。
「……本当にしょうもない」
舌打ち交じりに呟きながらも、内心でルキフェルは次の行動を思い描き始めていた。どうやって声だけで女を惹きつけるか、どのくらいの距離で話せば怪しまれないか。考えれば考えるほど、そのくだらなさに少し笑いが込み上げる。ジャスパーはそんなルキフェルの表情を見て、さらに悪戯っぽく笑った。
「ほら、考えてる顔も楽しそうじゃないか。お前、意外とノれるタイプだな」
ルキフェルは無言で外套を手に取り、顔を覆うように身にまとった。ジャスパーは嬉々として、肩を揺らして笑う。
「さあ、準備は整った。さっそく“冒険”に出るか?」
ルキフェルは小さく息を吐き、舌打ち交じりに答える。
「……くだらないけど、やってやるよ」
ジャスパーは拍手し、ルキフェルの肩を軽く叩いた。
「よし、それでこそおれの相棒だ!」
甲板の上に二人の笑い声が響く。自由を味わうひとときが、いつの間にか二人の距離を縮めていた。




