第七章⑦ ルキフェルとゼフィランサスの別れ
陽光が白い帆を照らし、港の潮風が甲板を駆け抜けていた。
船団はカディスへ入港し、水夫たちは慌ただしく物資の積み下ろしに追われている。その喧騒の片隅でルキフェル、フランソワ、そしてリュウの三人は静かに荷をまとめていた。縄を結び終えたフランソワが一息ついたところへ、足音が近づく。彼が顔を上げると、アランが小さな袋を手にして立っていた。
「これまでの報酬だ」
そう言って、アランは袋を差し出した。中には金貨の他に、紙束のようなものも見える。
「それと……これからの生活に必要な分も一緒に入ってる。ルキフェルのためにも、ひとまずこれで凌げるだろう」
フランソワは驚いたように目を見開き、やがて黙ってその袋を受け取った。しばし言葉を探すように唇を噛んだ後、深く頭を下げる。
「……ありがとう、アラン。借りは、いつか必ず返す」
アランはわずかに微笑み、潮風に髪をなびかせながら三人を見渡す。ふと四人の後ろから別の足音がした。ルキフェルが振り返ると、レオンが立っていた。潮風を受けて髪が揺れ、彼の表情にはいつものような穏やかさがあった。
「今までありがとうな、ルキフェル」
その一言に、ルキフェルの喉が詰まる。レオンは微笑を浮かべたまま、ゆっくりと続けた。
「願わくば、また会えることを楽しみにしてる」
レオンは視線をフランソワとリュウに移した。
「この子は、人を救けることができる。どうか、この子が道を間違えないよう導いてやってくれ」
フランソワは静かに頷き、リュウは小さく片手を胸に当てた。言葉はなかったが、二人の眼差しがその約束を代弁していた。レオンは再びルキフェルに目を戻す。
「アントワーヌもいればよかったが……どこかに行ってしまって、すまない」
「……ううん、いいんだ」
ルキフェルが首を振ると、レオンは少しだけ表情を和らげた。
「それと、顔の傷は気にするな。その傷痕は一生消えないだろうが、気に病むことはない。お前はきっと、大事な人を守れる男になる。……人の中身を見ろ。これだけは絶対に忘れるな」
ルキフェルの胸の奥に、潮の匂いと共にその言葉が深く刻まれる。少しの沈黙ののち、アランが一歩前に出た。
「お前たちの選んだ道が、正しいことを願っている」
レオンは無言で頷き、アランと並んで甲板の端に立つ。二人の姿が、まるでこの船を代表して見送る者たちのように静かだった。潮風が吹き抜け、船の旗が翻る。その音を合図に、ルキフェルたちはゆっくりと桟橋へと歩き出した。甲板では船縁から身を乗り出すように、アントワーヌが三人の背を見つめていた。
——さようなら、ラウル。
アントワーヌは唇を引き結んだ後、レオンと共に船縁から姿を消した。
石畳の港を、ルキフェルはフランソワとリュウの後を追うように歩いていく。船団を離れる感覚は、妙に胸をそわそわさせたが、ルキフェルはふと背中がゾワゾワし、呼吸が浅くなった。
——見られている。
ルキフェルは途端に立ち止まり、思い切って背後を振り返った。
「あっ……」
そこには、かつての日々を共にした船——自分が毎日を過ごしていたあの場所——がある。
甲板の上には一人、こちらを見つめる人物がいた。長く流れる黒髪、褐色の肌、そして鉛を溶かしたような黄金の瞳。ルキフェルの胸が跳ね、ふうっと息を吐いて胸を撫で下ろした。
「おれに名前くれた人じゃん。見送りに来たんだ」
船上のゼフィランサスと、港に立つルキフェル。二人の視線が交差する。ゼフィランサスの左耳に飾られたチェコガラスとトルコ石を繋いだイヤリングが、昼の陽光を受けてキラリと光った。ルキフェルは心の中でつぶやく。
——あの人。結局、船長だったんだよな。
ただの船の長ではない。ルキフェルにとって、ゼフィランサスは自分に名前をくれた人であり、思い出そのものだった。彼は微笑むように呟いた。
「おれに名前くれた人。よく分かんない人だったけど、優しいんだろな」
そして、ルキフェルは無邪気に手を振った。
「さよならー、元気でー!」
彼の声と笑顔に、船上のゼフィランサスは一瞬、驚愕した。だが次の瞬間、困ったように微笑みを浮かべ、控えめに手を振り返した。ルキフェルの笑顔は眩しく、見ていてどこか切ない。船と船長への最後の贈り物のようだった。
無邪気に手を振るルキフェルの姿を見つめながら、ゼフィランサスの胸は締め付けられた。あの小さな手がずっとこちらを振り続ける限り、彼もまた手を返さざるを得ない。ルキフェルが無邪気に手を振るその後ろ姿を、フランソワとリュウは見守っていた。頃合いを見て、フランソワが声を張り上げる。
「おい、ルキフェル! いくぞ!」
彼の声にハッとしたルキフェルは慌てて振り返り、まだ手を振り続けるゼフィランサスに最後の笑顔を見せた。
「ありがとなー、おれに名前くれた人!」
ルキフェルはすぐにフランソワとリュウの後ろを追いかけ、港の石畳を小走りで駆けていく。足元で小石が転がり、古い街灯の影が揺れた。一歩ずつ、船から遠ざかる旅にゼフィランサスの胸は再びぎゅっと締め付けられた。
「これで、君とは永遠にお別れだな。さらば、愛する我が友よ」
言葉とともに、一筋の涙が頬を伝う。胸中には、もう二度と会えない現実の痛みと、守りたいと願った小さな命への深い想いだけがあった。
「オレのことは忘れて、二度と思い出さないでくれ」
それは祝福なのか、呪いなのか。自分でも分からない。だが、ルキフェルが自分の光を失わず、前へ進むことを願う気持ちは揺るがなかった。心の奥底で、ゼフィランサスは強く願った。
どうか、この子が自らの光を失わずに進み続けられますように。
ルキフェルの小さな背中が、フランソワとリュウに導かれ、港の通りを駆け抜けていく。
ゼフィランサスは困ったように微笑み、控えめに手を振り続けながら、三人の背中が遠ざかっていくのを見送った。
港の喧騒と波の音が、二人の別れを静かに包み込む。




