第七章⑥ 守護者たち
船長室の扉が、重く軋んで閉じられた。外の喧噪は一気に遮断され、室内には船体の軋みと、微かな波音だけが残る。窓際に立つ男、ゼフィランサスはすでにこちらを向いていた。いつもの不敵な笑みはない。肩の力を抜いたようでいて、その瞳の奥にはっきりとした覚悟が宿っている。
「……来たか」
フランソワは無言のまま、自然と背筋を伸ばす。アランも眼帯の奥の視線を鋭くし、リュウは一歩だけ前に出て、静かにゼフィランサスを見据えた。ゼフィランサスはしばし沈黙したまま、窓の外——青い海に目を向ける。まるで言葉を選んでいるというより、決断そのものを噛み締めているかのようだった。
「……お前たちに、話しておかなければならないことがある。正直に言えば、ずっと迷っていた。今さら話すべきか、それとも……知らないままでいさせるべきか」
フランソワの喉がごくりと鳴る。リュウは微かに眉を寄せたが、何も言わない。アランだけがすでにただ事ではないと悟っていた。やがて、ゼフィランサスはゆっくりと三人を見渡す。
「だが……お前たちも、あの子のことでいずれ向き合わなければならん」
黄金の瞳が珍しく揺れている。
「ルキフェル……あの子の本当の名は——ラウルだ」
その名が落ちた瞬間、室内の空気が目に見えないほどの重さで沈んだ。フランソワの目がはっきりと見開かれ、アランは一瞬だけ動きを止め、リュウは静かに目を伏せた。ゼフィランサスは続ける。ためらいは、もうない。
「ラウル・レオパード。フランス海軍参謀官、エリオット・レオパード。——あの子は、その息子だ」
フランソワの顔色が音を立てて失われ、唇がかすかに震え出した。
「……嘘、だろ……海軍の……しかも、参謀って……?」
アランは歯を食いしばり、眼帯の奥の視線を床に落とした。リュウだけが理解した表情でゼフィランサスを見返す。
「要するにあの子は……オレの親友であり、今は敵対する男の息子だ」
フランソワの胸が大きく上下する。甲板で無邪気に笑っていた子どもの顔。剣を振り、息を荒げ、名前を持たず、それでも前を向こうとしていた姿が、一気に“許されない存在”へと塗り替えられていく感覚に、彼は耐えきれなかった。
「……じゃあ……俺たちは、何を拾ったんだ……?」
ゼフィランサスはまっすぐに答えた。
「——獣だ」
その一言がすべてだった。外で風が強く帆を鳴らす。まだ何も始まっていない。だがこの瞬間、全員が理解した。あの子——ラウルの存在がこの船の運命を、海そのものを狂わせ始めていることを。
「……ふざけんな」
フランソワは顔を伏せたまま拳を強く握り締め、歯を食いしばる音がやけに大きく響いた。
「……そんな話、今さら聞かされて、じゃあ俺たちは何だ?」
彼が顔を上げた瞬間、その瞳には怒りと拒絶がむき出しになっていた。
「海軍の参謀官の息子だと? 敵の血を引いたガキだと? そんなもん最初から分かってたら、拾わねぇ! 船に乗せもしねぇ!! 仲間を危険に晒してまで守る義理なんざ、どこにある!!」
「……そこまでだ」
リュウがフランソワの前に立った。腕を掴むでも、突き飛ばすでもない。ただ、立ちはだかるだけ。
「怒りは分かる。だが、今は違う」
フランソワはなおも言い募ろうとするが、リュウの視線がそれを許さなかった。
「ここで刃を向ける相手を、間違えるな」
彼の一言で、フランソワの動きが止まる。荒い息だけが室内に残った。沈黙の中で、今度はアランが口を開いた。眼帯の奥から、鋭い視線を向ける。
「……ゼフィランサス、なぜ今だ。黙っていれば済んだ。あの子が“何者か”など、知らずに済ませることもできたのに、それでも明かした理由は何だ」
ゼフィランサスは答えなかった。しばらくの間、ただ黙って立っている。窓の外で風が帆を叩く音がやけに遠く聞こえた。やがて、彼はぽつりと零すように呟く。
「……潮時だと思った」
フランソワが顔を上げ、アランが眉をひそめる。リュウだけがわずかに目を細めた。ゼフィランサスは三人を見ずに、窓向こうの海を振り返って続ける。
「オレは……もうすぐで、終わるだろう。だからだ」
それ以上は何も語らない。理由も意味も、“終わる”とは何なのかも。沈黙が重く落ちる。フランソワは何か言いかけたが、言葉を失った。アランは口を閉ざしたまま視線を落とし、リュウだけが胸の奥で何かを理解したように息を吐いた。ゼフィランサスはようやく三人の方を見た。
「……この先の選択は、お前たちに任せる」
彼の声はいつもの皮肉も嘲りもない。ただ、覚悟を決めた男の声だった。
ルキフェルが船医室の扉前に立つと、静かな作業の気配が伝わってきた。ノックをして中に入ると、レオンは机の上に広げたリストを確認しながら、今後必要な医療物資をチェックしていた。かさかさと紙をめくる音と、鉛筆で数字を書き込む音だけが室内に静かに響く。
「お、ルキフェルか。ちょうど良かった」
レオンは微笑みながら手を止め、整理していた自分の荷物の小箱に向かう。包帯や薬品、消毒用具などがきちんと並び、ひとつひとつ手際よく確認されていく。ルキフェルは彼の様子をじっと見つめながら、船医としての細やかさと計画的な準備の大切さを心の中で感じ取って、ふと口を開く。
「レオン、手伝うことある?」
レオンは微笑を深めた。
「じゃあ、物資の整理を手伝ってくれるか」
二人で静かな作業に没頭していった。ルキフェルは包帯を丁寧に揃えながら、レオンを見上げて言った。
「ねえ、レオン。カディスで補給したら、エル・イエロ島に行くんだろ?」
レオンは手元の薬品を整理しながらも、軽く頷いた。
「ああ、その通りだ。航路は変わらない」
ルキフェルは少しにやりとしながら次の言葉を口にした。
「じゃあ……彼女さんの件、どうするのー?」
その瞬間、レオンの手が止まった。紙をめくる手が止まり、目が一瞬大きく見開かれる。
「……な、なんだその急な話は……」
レオンは赤く染まった頬を押さえ、困惑した表情でルキフェルを見つめる。ルキフェルはにやりと笑い、彼の反応を楽しむように肩を揺らした。
「だって気になるから」
レオンは再び作業に戻ろうとするものの赤面がなかなか引かず、そわそわと手元を動かすばかりだった。ルキフェルはくすくす笑いながら、レオンの困惑を楽しんでいた。
「ほらほら、手ぇ止まってるじゃん」
「……ルキフェル、せめて『彼女さん』って呼ぶのやめろ。まだ幼馴染の関係だから……」
ルキフェルは肩を揺らして笑いながら揶揄うように言った。
「えー、まだ幼馴染かー。じゃあ、まだ保留ってことだね」
レオンは頭をかきながら小さく溜息をつき、赤面したまま作業に戻った。しかし、心なしか動作がぎこちなく、ルキフェルの笑い声が船医室に響き渡った。ルキフェルはふと笑いを止め、レオンの言葉の一つひとつを反芻した。
「ん? ……まだ?」
レオンは一瞬手を止め、ぎくりと肩を震わせる。
「レオン、もしかして!?」
ルキフェルの瞳が鋭く光り、問い詰めるように声を上げる。レオンは観念したように肩を落とし、口を開いた。
「……エル・イエロに着いたら、船を降りる。契約の更新はしない」
ルキフェルは一瞬驚きつつも、すぐに笑顔を取り戻した。
「じゃあ、彼女さんの側にいるんだな!? おめでとー、レオン!」
レオンは慌てて両手を振りながら、赤面して突っ込む。
「いや、まだ何も始まってないし! だから、あと彼女さん呼びやめろ!?」
ルキフェルは笑いを堪えきれず、肩を揺らしたが、ふと船医室の中をきょろきょろと見回した。
「そういや、アントワーヌを見ないんだ。あいつ、生きてる?」
レオンは手元の作業を止め、にやりと笑いながら答える。
「アントワーヌならちゃんと生きてるぞ。近頃、船長の元に出入りしてる」
ルキフェルは眉をひそめ、少し首を傾げた。
「へぇ……そうなんだ」
レオンは手を止め、真剣な目でルキフェルを見つめた。
「そういえば、お前たちの交流を見なくなったな。喧嘩でもしたか?」
ルキフェルは少し考え込み、肩をすくめた。
「いいや。なんか、気づいたら離れ離れになったなぁって」
レオンは軽くため息をつきながらも、口元に微笑を浮かべる。
「そっか。まあ成長するにつれて、自然と距離ができることもあるさ。お前も、そのうち分かるだろう」
ルキフェルは彼の言葉を聞きながら、どこかもやもやした気持ちを抱えてレオンの背を見つめた。
「……アントワーヌ、なんで船長のとこにいるんだろ」
心の奥に小さなざらつきが残る。仲が悪くなったわけじゃない。ただ、気づけばもう互いに違う場所を見ている。その現実が胸のどこかをじくりと痛ませた。突然、扉が勢いよく開かれる。
「——ルキフェル!」
ルキフェルが振り向くと、そこにはフランソワとリュウの姿。ふたりとも、いつもの穏やかな空気を纏ってはいなかった。二人の目は真剣というより、張りつめた焦燥を宿している。
「どうしたの?」
ルキフェルは思わず立ち上がると、フランソワはルキフェルの両肩を強く掴んだ。
「ルキフェル、船を降りよう。もう、ここにはいられない」
突然の言葉に、ルキフェルの心臓が一瞬止まったように感じた。
「……え?」
フランソワの背後では、リュウが頷いている。いつもの冗談めいた余裕は一切ない。二人の表情がただならぬ事態を物語っていた。フランソワの顔は、どこか苦しげで、ルキフェルは思わず震える声で問いかけた。
「な、なにがあったの?」
船医室に微かな波の音だけが響く。フランソワは口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。
「それは……」
フランソワの視線が宙をさまよう。何かを言おうとして、できない。代わりに、リュウが前へ出た。
「理由は言えない。だが、全て君のためだ。ルキフェル」
「……おれの?」
ルキフェルは戸惑いのまま二人を見上げる。
「君の将来を考えて、私たちはこの船を降りると決めたんだ」
リュウの瞳には、迷いと哀しみが混ざっていた。フランソワも黙って頷く。ルキフェルの胸の奥で、ざらついたものが音を立てた。
「……なんで、おれのために……?」
幼い声がは微かに震えている。
「待ってよ! なんでそんな勝手に決めるんだよ! おれ、まだ何も聞いてないのに!」
ルキフェルの声には必死さが滲んでいたが、フランソワは悲しげに目を伏せて口を開く。
「ルキフェル……お前には、海賊以外の道があるはずだ」
ルキフェルは言葉を失った。フランソワの瞳はまっすぐで、冗談を言っている様子はない。フランソワは一度、リュウと目を交わした。そして、決意を込めて言い切る。
「それを探るためにも、船を降りることにしたんだ。お前と俺と、リュウで」
「……おれと?」
ルキフェルの声が小さく震え、リュウが頷いた。
「君をこの船に置いておけば、いずれ呑まれる。だから連れていく。——ゼフィランサスの掌から、な」
「……なに、それ……」
ルキフェルは混乱のまま、二人を見つめた。フランソワは穏やかに説得してくる。
「ルキフェル、お前はここにいるべきじゃない。このままじゃ、あの人の“駒”にされるだけだ。だから……俺たちと一緒に逃げよう」
「逃げるって、どういうこと?」
ルキフェルは目を瞬かせた。心の底から困惑が滲んでいる。一方、リュウはしばらく黙ったままルキフェルを見つめていた。彼の瞳の奥には決意とほんの少しの哀しみがあった。
「……陸の世界で暮らすんだ」
「陸?」
ルキフェルが首を傾げる。
「そうだ。海でも、戦場でもない。風の匂いが違う場所でな」
リュウは少しだけ笑った。その笑みはどこか遠くを見つめているようで、彼の胸の中にある理想の光景を、そのまま映しているようだった。
「三人で穏やかに暮らすんだ。ここではない、どこか別の場所で」
その言葉には現実感がなかった。甲板を打つ波音が、遠くでやけに明瞭に響く。ルキフェルは唇を開いたが、言葉が出てこない。海。それが自分にとって“当たり前”だった世界。それ以外の世界を想像することができなかった。けれど、リュウの声には温もりがあった。まるで、夜明け前の光のように優しく包み込むような響きで。フランソワがリュウの言葉を引き継ぐように口を開く。
「お前にとって、この海がすべてじゃない。もっと広い世界があるんだよ、ルキフェル」
ルキフェルは二人の言葉を聞きながら、胸の奥で何かが小さく軋む音を感じた。
穏やかに暮らす。その言葉が、なぜだか少しだけ怖く思えた。
「でも……船長は? それって、許されるの?」
ルキフェルの声は震えていた。信頼する者を裏切ることの重みを、幼いながらにも感じ取っている。フランソワの顔が強張った。目の奥に一瞬、迷いが走るが、噛み殺すように彼はきつく唇を結んで言い放った。
「……あいつのことは考えるな。忘れろ」
フランソワの声には怒りでも憎しみでもなく、“恐怖”に近い何かが滲んでいた。ルキフェルは思わず後ずさった。いつも優しいフランソワが、こんな声を出すなんて。フランソワはルキフェルから目を逸らさぬまま、喉の奥で言葉を押し出すように、口を開いた。
「それに、あいつにはもう言った。俺たち三人は、カディスに着き次第、船を降りると」
船医室の空気がぴたりと止まった。波の音さえ、遠くに霞む。ルキフェルは息を呑んだ。もう、言ってしまった。その言葉の重さが、まるで鎖のように心に絡みつく。フランソワの顔には決意の影が差していた。それは、ただの逃亡ではない。何かもっと深くて、重たい“決断”の匂いがした。ルキフェルは唇を震わせた。
「……どうして、そこまでして船を降りるの?」
もう一度だけ理由を尋ねようとした瞬間、リュウがそっとその言葉を遮った。
「……すまないが、君のためにも言わない約束を交わしたんだ」
拒絶ではなく、慈しみに似た響きがそこにあった。ルキフェルはしばらく俯いて黙り込んだ。約束、という言葉がやけに心にザラついた。苦くもある。理由はわからなかったが、本能が果たさねばらないと告げていた。やがて、ルキフェルは息を吸って頷く。
「……分かった。約束は大事にするもんだから、それ以上は聞かない」
ルキフェルは顔を上げ、まっすぐに二人を見据えた。
「おれ、フランソワとヨシマサについていく」
ルキフェルの瞳に躊躇いはなかった。代わりに、どこか遠くへ続く見えない航路を三人だけで進む決意が宿っている。




