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第1話 ~哲人side~ 青葉の匂いを編集

 僕ほど幸福な幼少期を過ごした人間はいない。


 僕、相澤哲人あいざわ てつひとは、ときどき本気でそう思う。


 そして、その確信は皮肉なことに、自分が不幸になればなるほど強くなっていった。


 現在が濁るほど、過去は透明になる。


 夏草の匂い。


 キッチンから聞こえる母の笑い声。


 世界を恐れる必要などなかった頃の、茜色の夕暮れ。


 それらは記憶ではなく、ときに刃物だった。


 何の前触れもなく胸の奥へ入り込み、今の自分を切り裂いていく。


 「お前のその態度が、周りに悪影響を与えているんだ」


 担任はそう言って、僕の机を教室のいちばん後ろへ移した。


 窓際だった。


 本来なら「あいざわ」という名字のおかげで、出席番号はいつも最初だった。


 けれど今の僕は最後尾にいる。


 それがおかしくて、少し笑おうとした。


 だが口元は動かず、喉の奥で乾いた空気がかすかに鳴っただけだった。


 机の右上には黒く塗り潰された×印がある。


 何度も何度もボールペンでなぞられた痕跡。


 そこだけ木目が削れ、まるで傷口が瘡蓋になったみたいに黒ずんでいた。


 授業中、僕は無意識にその跡を指先でなぞる。


 傷の深さを確かめるように。


 教室には絶え間なく音が満ちていた。


 教師の声。


 シャープペンシルの芯が紙を引っ掻く音。


 ページをめくる音。


 誰かの咳払い。


 ありふれた音ばかりだった。


 だが、そのどれもが遠かった。


 透明な壁の向こう側で鳴っているように。


 みんな信じているのだろう。


 自分には続きがあるのだと。


 今日の先に明日があり、その先に進学や就職や恋愛があって、やがてまともな人生へ辿り着けるのだと。


 疑いもしないのだろう。


 不意に、半分だけ開いた窓から風が吹き込んだ。


 青葉の匂いがした。


 昔の僕なら、その匂いだけで救われた。


 理由もなく、生きていることは悪くないと思えた。


 世界は広く、美しいものだと信じられた。


 だが今は違う。


 その風は僕を通り過ぎていく。


 爽やかささえ、自分とは無関係な場所のものに思えた。


 世界は変わっていない。


 変わったのは僕のほうだ。


 それなのに、世界の側が静かに僕を拒絶しているような気がした。


 胸の奥がきりきりと軋む。


 吐き気にも似た感覚だった。


 みんな、消えてしまえばいいのに。


 誰にも聞こえない場所で思う。


 いや。


 違う。


 いっそ僕が消えればいいのに。


 そのほうが自然な気がした。


 教科書のページが風に煽られ、ぱらぱらとめくられていく。


 まるで誰かが勝手に僕の人生を読み飛ばしているみたいだった。


 僕はそれを眺めながら、自分の内側で何かが育っているのを感じていた。


 黒だった。


 怒りとも悲しみともつかない色。


 濁り、沈み、どこにも流れていかない黒。


 それは静かに思考へ染み込み、逃げ場を失った水のように僕の内側へ満ちていく。


 やがて胸の底まで満たしたその黒は、誰にも見えない場所で、音もなく息をしていた。

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