エピローグ
新緑が芽吹きだした山々。その空気を肌で感じたくて車の窓を開けた。
あたたかい春の風が飛び込んできて、気持ちいい。
「危ないから顔は出さないでください」
「もー。子どもじゃないんだから、そんなことしないわよ」
「そういって、引っ越しの準備ができていなかったのは、誰ですか?」
「あれは、引っ越し業者の人に任せるつもりだったの。最近は荷造りから全部してくれるプランもあるから」
「そこは問題ではありません」
「じゃあ、どこが問題?」
私は隣で運転している黒鷺を見た。
真剣にハンドルを握る横顔は、長い睫毛やまっすぐな鼻筋をより強調する。あと、普段は見られないギア操作もカッコいい。
なんか、もうイケメンすぎる。
ボーと眺めていると、薄茶色の瞳が睨んできた。
「こんな田舎に引っ越すのに、車の用意をしていなかったんですよ? 人気の新車は納車まで数か月待ちの場合もありますから、早めに準備しておかないと」
「だって、家は職場のすぐ近くだっていうから、車が必要だと思わなかったのよ。それに、車は蒼井先生の馴染みのディーラーが優遇して、早めに用意してくれたし」
「蒼井に助言されたっていうのが悔しいんです」
「そこは気にしない、気にしない」
軽く流す私に対して、黒鷺は拗ねたように口を尖らせる。
事の始まりは、蒼井と雑談をしている時だった。転勤先での車はどうするのか、と聞かれ
「車が必要なの?」
と、私は首を傾げた。
すると、次の休日にはディーラーに連れていかれ、あれよ、あれよ、という間に車を選定。駐車場を確保してから新車を購入、となった。
お金については、仕事ばかりで給料が貯まっていたから問題なし。こんなに大きな買い物をしたのは人生初だったけど。
ただ、これは黒鷺が入院している間に起きた出来事。
退院してから、このことを知った黒鷺はすごく嘆いた。
「一緒に車を選びたかったのに」
「でも、良い車だと思うわよ?」
「良い車ですよ。蒼井が選んだと思わなければ」
ずっと根に持って言い続けている。ヤキモチらしく、こういう時の黒鷺はちょっと可愛い。
「はい、はい」
私がヨシヨシと頭を撫でると、黒鷺の頬が少しだけ赤くなった。いつもなら顔を背けたり、逃げたりするが、今は運転中のため動けない。
ここぞとばかりに、思う存分、頭を撫でて黒髪を堪能する。
「もういいでしょう?」
「うん」
満足した私が手を離すと、黒鷺が照れ隠しのように言った。
「そもそも、職場が近くても、買い物はどうするつもりだったんですか? お店が近くあるとはかぎらないですし。あと場所によっては、電車どころかバスも、ほとんどないんですから」
「ネットショッピングもあるし、なんとかなるかなぁって」
「ネットだって万能ではないんですよ? あ、トンネルに入りますので、窓を閉めてください」
言われた通り窓を閉める。トンネルのライトが不機嫌顔の黒鷺を照らした。
「あと、日々の食事はどうするつもりだったんですか?」
「レトルトとか、インスタント……とか?」
「毎日?」
「毎日」
「……」
微妙な沈黙。本当にそう考えていたのだから仕方ない。
「無茶というか無謀というか」
「そ、それを言うなら黒鷺君だって無茶したじゃない! 手術の直後に返事を求めるし、あんなことするし!」
「あれは、鉄板が腹に刺さって、死にかけたんですよ? このまま死ぬかも……って思ったら、悔いがないようにしようってなるでしょう?」
「でも、鉄板は腹膜で止まっていて、臓器に損傷はなかったのよ。堤が『鍛えられた筋肉が鉄板を止めた。筋肉が鉄板に勝った』って喜んでいたもの」
「僕はそのことを知らなかったんですから……って、それは終わったことなので、いいんです」
黒鷺は軽く咳払いをして話題を変えた。
「食事について、そこまで能天気に考えていたなら、不眠の原因は転勤ではなさそうですね」
「あー、そうね。徹夜で漫画を描いている黒鷺君の隣でなら、よく寝れることが分かったし」
あれから、いろいろ実験して、一番熟睡できるのは黒鷺の部屋ということが分かった。客室でも一応寝れるけど、なぜか眠りは浅くなる。
で、一番眠れなかったのは私のアパート。まったく寝れなくて、翌日がしんどかった。
「寝落ちする度に、僕のベッドに運びましたけどね」
「ありがとうございます」
頭を下げる私に、黒鷺がポツリとこぼす。
「僕はそろそろ我慢の限界なんですけど」
「我慢?」
「そうです。僕だって男なんですから、好きな人が側で無防備に寝ていたら……それに、いまだに名前で呼んでくれないし……」
なんかグチグチ言ってるけど、それより私は眼前の光景に意識を奪われた。
「トンネルから出るよ!」
眩しい光に包まれる。黒から青一色の世界へ。
「海だよ! 海!」
青い空に青い海。ポツポツと浮かぶ島。
車が道なりに大きく曲がる。なだらかな丘に建つ家々。すべてが輝いて見える。
「あそこが目的地!?」
「そうです。港町ですが、近くに山もあります。最近はUターンやIターン誘致に成功して若い人が増え、子どもの数も増えてたそうです。ですが、小児科が近くにないため、住人から不満が出ていたそうですよ」
「それで私が呼ばれたのね」
「そのようですね。で、コンビニどころか、お店もなさそうですよ?」
「……そうね」
「一緒に来て良かったでしょう?」
「うぅ……でも、本当に良かったの?」
黒鷺の眉間にシワが寄る。不機嫌な時にする表情。
「何回も言ったでしょう? 一緒にいるって」
「け、けど……漫画の連載とか、大学とかあるし……」
「漫画は今までリモートでどうにかなっていましたから。これからも大丈夫でしょう。それに、大学は卒業しましたよ」
「ほぇ!? そ、卒業!? え? 四年生だったの!?」
「はい」
平然と頷いているが、私は初耳だ。
「じゃあ、就活は!?」
「就活しなくても、仕事してますし。漫画とか、翻訳とか、通訳とか」
「そうだった……」
私は助手席の中で沈んだ。黒鷺が運転したまま私の頭を撫でる。
これがまた悔しいけど気持ちいい。これだけで、大抵のことを許してしまう私はチョロいんだろうな。
落ち込んでいると、再び声がした。
「ほかに気になることは?」
「あの洋館が空き家になる、とか?」
「あぁ。姉さんはまたどこかに旅立ちましたしね。父さんは時々帰ってきますけど」
「家の中と庭がぼさぼさになりそう。せっかくオシャレなのに、もったいない」
「まあ、八月になったら母さんが帰ってきますから」
爆弾発言に私は体を起こした。
「え!? お母さんがいたの!?」
「……いなかったら僕は生まれていないと思うのですが」
「そうじゃなくて。話題に出なかったから疎遠になっているのかと……」
「母さんはアメリカの大学で微生物学の勉強をしているんです。今年の七月で終わるので、八月には帰国予定です」
そのことに私は両腕を組んで唸った。
「うーん。じゃあ、その頃に挨拶に行かないと……」
「挨拶?」
「だって、黒鷺君をこんなところに連れて来ちゃったから」
神妙な私に対して、黒鷺が吹き出す。
「なんか嫁にくださいって、結婚の挨拶に行くみたいですね」
「けっ!?」
言葉に詰まると、隣から軽い声が。
「僕は全然かまいませんよ」
「ほ、保留で」
「遠慮しなくてもいいのに。あ、ここみたいです」
ナビが目的地周辺であることを知らせる。周囲は畑だらけで家はこの一軒のみ。
車が家の前で停車する。
「なんか、立派な家だね……」
そこには、白塗りの壁に黒い柱と瓦を使った、立派な古民家を現代風にリフォームした平屋があった。
「なんか、横に長くない? これ、何人暮らし用?」
口を開けてポカンとしている私に黒鷺がツッコミをいれる。
「そんなに口を開けていると虫が入りますよ?」
「それは嫌!」
慌てて口を閉じると、なぜか笑われた。腹が立つけど、許してしまうのは惚れた弱みか。
そんな私の葛藤など知らない黒鷺が、緩みきった口元を隠しながら道の先を指差す。
「あそこに病院がありますね。徒歩でも行けますが、外灯がないので、夜は懐中電灯を持たないと真っ暗ですね」
「そんなに暗くなるの!?」
「田舎の夜をナメないほうがいいですよ」
「なんか、詳しくない?」
「母の実家がこんな感じの田舎だったので、少し知っているんです。さて、掃除から始めましょうか」
午後には引っ越し荷物が届く。それまでに、荷物を運びこめるようにしておかないと。
私はもう一度、リフォームされた古民家を見上げた。
――――――ここから二人の新しい生活が始まる。