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詠唱殺しの剣士  作者: 源三郎
第一部 奪われる者たち

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第六話 白い尖塔の内側

フィーネの従卒として、僕は初めて魔法学校の門をくぐった。


坂の上の世界は、坂の下とは何もかもが違う。磨き上げられた白い石畳。手入れの行き届いた庭園。噴水からは、魔法で色づけされた水がきらきらと弧を描いている。すれ違う生徒は誰もが清潔なローブをまとい、泥の匂いなどどこにもしない。ここでは貧しさも、飢えも、死のにおいも、きれいに掃き清められていた。


同じ国の、同じ十六歳。ただ生まれと魔力の多寡が違うだけで、朝は泥を掘り夜は他人の夢に溺れる僕と、この石畳を歩く彼らのあいだには、越えられない壁がそびえている。その壁を当たり前の顔で受け入れている坂の上の連中に、僕は静かな怒りを覚えた。けれど、顔には出さない。従卒は、感情を持ってはいけないことになっている。


「ぼさっとしないの。荷物、ちゃんと持ってる?」


前を行くフィーネが振り返る。僕は彼女の教本や杖の入った鞄を担ぎ、三歩下がってついて歩いた。周りの生徒は、フィーネに冷たい視線を向けている。落ちこぼれの令嬢と、そのみすぼらしい従卒。格好の噂の種というわけだ。


「みんな、わたしのことを笑ってるのよ」


フィーネが前を向いたまま、ぽつりと言った。


「魔力も出ないくせに、名門の娘だからって特待で残ってる。恥さらしだ、って。……聞こえてるんだから、こっちには」


いつもの勝ち気さの下に、隠しきれない痛みがにじんでいた。僕は何と言えばいいかわからず、ただ荷物を担ぎ直した。強がりの令嬢も、坂の上でひとりぼっちなのだと、そのとき初めて知った。坂の上にも、坂の上なりの地獄がある。


「でも、いいの」と、フィーネはすぐに顔を上げた。「陰口なんて、聞こえないふりをすればいいんだから。あなたも、そう思うでしょ」


「……そうですね」


「なによ、その気のない返事は。もっと、そうだそうだって、従卒らしく主人を持ち上げなさいよ」


軽口を叩きながら、彼女は少し歩調を速めた。傷ついていないふりをするのが、この人はうまい。うますぎて、見ているこちらのほうが、かえってつらくなる。


校舎を歩きながら、僕はさりげなく神経を張り巡らせた。


エレナは、どこにいるのか。


無数の生徒の頭で、詠唱の芯が生まれては消えていく。そのざわめきのなかから、僕は探し続けた。あの暖かくて、けれどどこか寂しい光の気配を。子どものころ凍えた指をあたためてくれた、あの魔力の色を。


そして、見つけた。無数の気配のなかで、その光だけが、あの日と同じ体温を持っていた。


中庭を挟んだ回廊の向こう。ひときわ人だかりのできた一角に、エレナはいた。特待生の彼女は、いつも誰かに囲まれている。教師たちが、宝物を扱うように付き添っていた。宝物。そう、あれは大事にされているのではない。管理されているのだ。壊れないように、逃げないように。


その隣に、あの生徒会長がいた。


「あれはクラウス様よ」と、僕の視線に気づいたフィーネが小声で言う。「生徒会長で、次期当主候補。エレナ様の婚約者候補ともっぱらの噂。……この国のためなら、平気で人を切り捨てられる、そういう方」


クラウス。頭を覗けば、やはり思考は氷のようだった。前に見たときより、その氷は一段と硬く、研ぎ澄まされている。彼はエレナに何かを話しかけていた。


「――結界の安定のためだ。個人の感情は、この際、脇に置くべきだろう」


途切れ途切れに届いたその言葉に、背筋が凍った。結界。個人の感情。彼らはもう、エレナを炉にくべる話を、当たり前のように口にしている。


エレナはうつむいていた。何も言い返さない。ただ細い肩を、震わせるでもなく、じっと固めている。抗うことすら、もう諦めかけているのかもしれない。そう思うと、荷物を握る手に、知らず力がこもった。


もっと近くで聞きたかった。僕は荷物を担ぎ直すふりをして、そっと柱の陰に寄る。クラウスの思考の芯へ、意識を伸ばした。


彼は淡々と計算していた。感情ではなく、計算だ。結界の残り寿命。いまの炉の消耗率。次の炉に必要な聖魔力の総量。そして――その条件を満たす人間が、この学校にただひとりしかいないこと。


適合率、九十八パーセント。代替候補なし。国益上、選定は不可避。


その冷たい数字の羅列に、僕は吐き気を覚えた。クラウスにとって、エレナは女の子ではない。九十八パーセントの適合率を持つ、一個の部品だ。良心の呵責すら感じていない。自分は正しいことをしている、国のために最も効率のいい選択をしている、と本気で信じている。だからこそ、たちが悪い。明確な悪意なら憎みようもある。けれど善意に裏打ちされた冷酷ほど、崩すのが難しいものはない。


「炉の選定式は、来年の星華祭のあとになるだろう」


クラウスの声が、風に乗って切れ切れに届いた。


「それまでは、彼女にも学生らしい時間をやればいい。無用に怯えさせて、聖魔力の質を落とすのは得策ではないからな」


学生らしい時間をやればいい。屠られる前の家畜に、束の間の牧草を許すような言い草だった。奥歯を噛みしめる。来年の星華祭。刻限が、はっきり見えた。それまでに僕は、あの巨大な仕組みを内側から食い破れるだけの牙を、手に入れなければならない。


そのとき、エレナがふと顔を上げた。


回廊の向こうとこちら。数十歩を隔てて、僕たちの視線がふたたび交わった。


彼女の瞳が大きく揺れる。頭のなかの気配が、ぐしゃりと乱れる。従卒の粗末な服を着て、みすぼらしい鞄を担ぎ、坂の下の匂いをまとった僕。それを見て、彼女の顔に浮かんだのは、驚きと、深い痛みだった。


どうして、あなたがそこにいるの。


そんな格好で……わたしのことなんて、もう忘れたはずじゃないの。


流れこんでくる心が、胸を抉った。誤解している。エレナはきっと、僕が魔法学校に来なかったのは自分を嫌ったからだと思っている。そしていま、他の令嬢の従卒として現れた僕を、あてつけのように感じているのだ。


違うんだ、と叫びたかった。全部、君を守るためなんだと。


けれど、言えなかった。ここで本当のことを告げれば、僕の力も、生贄の計画を知っていることも、すべて露見する。そうなれば、彼らはより早く、より厳重に、エレナを炉のそばへ閉じこめるだろう。いまはまだ、動くときではない。


だから僕は、ただ目をそらした。まるで、彼女など見えなかったかのように。まるで、赤の他人であるかのように。


その瞬間、エレナの瞳から、光がすっと引いていくのがわかった。彼女は唇を噛み、くるりと背を向けて、クラウスのローブの陰へ歩み去った。細い背中が、雨に打たれた花みたいに頼りなく見えた。


ごめん。心のなかだけで謝った。いまはまだ、憎まれていてくれ。その憎しみが、いつか君を生かす。


「シオン? どうしたの、ぼうっとして」


フィーネが不思議そうに覗きこんだ。


「なんでもありません。……少し、荷物が重くて」


「情けないわね。まったく。ほら、しっかり歩きなさい。置いていくわよ」


呆れたように笑う。その屈託のなさに、どれだけ救われたかしれない。フィーネの隣にいるあいだだけ、僕は坂の上の残酷さから、ほんの少しだけ目をそらしていられた。


そのフィーネが、教本を返してくると言って書庫へ消えた、わずかな隙だった。


「シオン」


背後から名を呼ばれて、心臓が止まりかけた。振り返るまでもない。声だけで、誰かわかる。エレナが、柱の陰に立っていた。人目を避けて、僕を追ってきたのだ。


「やっぱり、シオンだ。……見間違いじゃなかった」


近くで見る彼女は、記憶よりずっと痩せていた。それでも、僕を見上げる瞳の奥には、あの日と変わらない光がある。頭のなかから、彼女の心が痛いほど流れこんできた。すがるような、責めるような、ほどけない問いの塊が。


「どうして、そんな格好してるの。どうして、よその令嬢の後ろを、荷物なんか持って歩いてるの。……わたしのことは、あんなに冷たく突き放したのに」


声が震えていた。


「わたし、ずっと考えてた。シオンは、わたしが嫌いになったんだって。魔力の高い体が、気味悪くなったんだって。……そう思わなきゃ、あの日のこと、説明がつかないもの」


違う。全部、違う。喉まで出かかった言葉を、僕は奥歯で噛み殺した。ここで本当のことを言えば、この子はもっと危うくなる。だから僕は、いちばん残酷な顔を選んだ。


「……人違いじゃないかな。僕は、ただの従卒だよ」


エレナの瞳が、大きく揺れた。信じられない、という顔だった。やがて、その目にみるみる涙が盛り上がる。


「うそ。そんなの、うそだ。わたしのこと、忘れたふりなんて……ひどいよ、シオン」


こぼれた涙が、白い石畳に落ちた。ひどい。そうだ、ひどい男だ。君を守るために、君を泣かせている。この矛盾を、僕は一生抱えて生きるのだろう。


何も言えずに立ち尽くす僕を置いて、エレナは背を向けた。今度は、走らなかった。ただ、うつむいて、ゆっくりと歩き去っていく。その背中のほうが、駆けていくより、よほど見ていられなかった。


「シオン? どうしたの、そんなところで突っ立って」


書庫から戻ったフィーネの声で、僕はようやく息を吸った。膝が、かすかに震えていた。


帰り道、坂を下りながら、僕はずっと考えていた。来年の星華祭。それが刻限だ。それまでに、クラウスたちの詠唱を確実に食い破り、なおかつ生きて逃げ延びられるだけの力をつける。いまの僕では、まるで足りない。ひとつ術式を書き換えるたびに感覚を削り記憶を失う、こんな脆い体では。


けれど、道が見えたことは大きかった。漠然とした恐怖には抗えない。期日の決まった敵になら、備えられる。


「シオン、また辛気くさい顔してる」


坂の途中で、送りに来たフィーネが振り返った。彼女はいつも校門まで僕を送ってくれる。従卒に見送られるのが主人の役目だなんて逆さまもいいところだが、フィーネはそういうことを気にしない令嬢だった。


「今日、あなた、ずっと上の空だったわね。何か気になることでもあったの」


「……いえ。少し、坂の上の景色に、酔ってしまって」


「変なの。まあ、あなたはいつも変だけど」


けらけらと笑う。その笑顔に、坂の上の冷たい計算の記憶が、ほんの少しだけ洗い流される気がした。


白い尖塔を見上げる。あの光の奥で、エレナはいまも炉に近づいていく。僕は近づいた。確かに近づいた。それなのに、二人の心の距離は、あの桜の日よりずっと遠くなっていた。近づくほどに遠くなる。そんな残酷な道を、僕はえらんでしまったらしい。


それでもいい。距離が遠いままでも、間に合いさえすれば。憎まれたままでも、あの子が生きてさえいてくれれば。僕は坂を下りながら、拳をそっと握りしめた。夕陽が、白い尖塔を赤く染めていた。血の色みたいだ。そう思って、僕はすぐにその考えを打ち消した。

九十八パーセント。クラウスにとって、エレナは数字だった。

刻限は、来年の星華祭。

近づくほどに、遠くなる道を選んでしまったらしい。

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