第2話 「リアライズ」
歩道橋の上から伸ばした手は、まるで太陽を掴み取ったかに見えた。その光景に凛音は知らず涙をこぼす。命の危機に晒され、極限の精神状態にあった凛音にとって、少女の姿はあまりにも神々しかった。
「なに人のもの横取りしてんのよ!」
怒りをあらわにギャルが吠える。どうやら彼女は、感情が昂ぶると口調が素に戻ってしまうらしい。
獲物を目の前で掻っ攫われては、それは無理もないだろう。眉間にできたシワが、目もとの白い隈を際立たせる。
影は全く微動だにしない。目が光に慣れてきて、凛音にもおぼろげながら少女の姿を確認出来た。
陽光を浴びる銀色のショートボブ。深く吸い込まれるような藍色の瞳は、ひどく寂しげでどこか冷たかった。
「なんか言えっーー
太ももを晒してギャルが跳ぶ。常人離れした跳躍力で少女のいる歩道橋まで迫る。
ーーつーのっ!」
伸びた爪が煌めき、歩道橋の手すりが切り刻まれる。バラバラになったアルミ管が地面に高音を響かせるが、そこに少女の姿は無い。
ギャルが振り下ろすより先に少女もまた、飛んでいた。
鮮やかな動作で一回転、さらに捻りを加えると、凛音を背にして舞い降りる。その姿はまるで天使のよう。
少女もこれまた同じ制服を着ている。その華奢な体は146センチの凛音から見ても随分と小柄に思えた。見る人によっては小学生と間違えてもおかしくはないほどだ。それでも今は彼女の背中が、とても大きく頼もしく見えた。
「逃げれそう?」
声だけで短く尋ねられる。凛音は少女に見惚れてたせいもあり、どもりながら返事をした。
「えっあ、脚をケガしてしまって……その」
「なら私のそばにいて」
「えっ?」
「その方が絶対、安全だから」
「カッコつけてんじゃねーよ!」
攻撃が不発に終わり、ギャルは不機嫌そうに顔をしかめた。膝上30センチしかないスカートを大胆に揺らし、大股で少女に歩み寄る。
「アンタ知ってるよ。1年の不思議ちゃん、ユーメーじゃん」
「1年D組士道司。フシギ=チャン=ユーメーじゃない。こんな髪でも日本人、だから間違えないで」
「ハァ、なにそれ? ぜんっぜん面白くないんですけどぉ〜」
「そういうオマエは面白い顔をしてる。色黒で目元だけ白い、爪と合わせてまるでヤマンバ」
ぷっ。と、凛音は失笑した。言われてみれば確かにそうだ。ヤマンバギャル。テレビの懐かしバラエティでしか見たことないが確かにそっくりだ。
ギャルは司から目を逸らし、凛音を睨みつける。憎悪に満ちた視線が届く前に、司は腕を伸ばして遮った。指には先ほど手にしたカードが挟まれている。
「じゃあ始めようか。神の娘がこの場に2人、ならやることはひとつ」
司の言葉にギャルは唇の端を釣り上げる。
「へぇ、面白いじゃん。ちょっとは楽しませてよね」
「それは無理」
今まで黒かったカードが、黄金色に輝き始める。
「よくもアタシの金カードを!」
司の手にした輝くカード。太陽を閉じ込めたような、優しく包み込む暖かな光。
「だって勝つのは私だからーー【顕現】」
司のカードが閃光を放つ。
凛音がわずかに顔を背けた間に、司の手からはカードも光も失われていた。
代わりに握られていたのは傘。生地と手元の部分が、司の瞳に似た澄んだ藍色をしている。
「キャッハハハハ!」
背中を丸め、顔をクシャクシャにしてギャルが笑う。緩慢な動きで腕を揺らし、チンパンジーのように何度も手を叩いた。擦れた爪が汚い音を掻き鳴らすが、そんなものは御構い無しだ。
「なにさソレ、マジヤバイ。傘とか、チビのアンタにはお似合いじゃん」
明らかに小馬鹿にしている様子。しかし凛音も内心では不安を感じていた。
ギャルの「イケてるネイル」は紛れもなく武器であり、人を殺めた凶器なのだ。
それに比べて、司の武器は見た目普通の傘なのだ。それこそホームセンターで980円で売っていても不思議ではない。
「あまり傘を舐めない方がいい。コイツの名前はエクリプス。あらゆる不浄を遮り陽の光さえも通さない、日蝕の傘」
「ようは日傘ってこと? 知ってるし、傘でチャンバラとか男子とよく遊んだし」
「ならはっきり言う。銅の分際で金に勝てると思うな」
「アタシ銀なんですけどぉ〜」
「どのみちオマエの勝ちはない。良かったな、負けても恥ずかしくないぞ」
「あっはははっ。そっかー……ふーん」
履いたローファーを地面に擦り付け、ジャリジャリとアスファルトを鳴らす。
「ころすわ」
刹那、ギャルは山猫のような跳躍を見せた。が、それより疾く司が仕掛ける。
ギャルの手首に傘の手元を引っ掛け、突進の反動を利用したカウンターを狙う。
大きく弧を描いた蹴りの軌道は、見事に後頭部に命中した。
アゴを突き出すような体勢で吹っ飛ばされたギャル。だが膝を曲げると、それこそ猫のように体を捻って着地する。
四肢を地につけて力を溜めるとすぐさま反撃へ転じた。
切るのがダメなら突きならどうだ。
そう言わんばかりに両腕を突き出し、ミサイルばりの突進を繰り出す。10本の刃先が司に迫るが、彼女は冷静に傘の先端を向けて構えた。
「そこっ」
爪と先端が交差するタイミングで、傘が開く。
伸びた爪が生地の上を滑る。
材質か形状か、はたまた開いたタイミングが良かったのか。鉄を斬り裂き人命を奪った刃は、容易く軌道を逸らされた。
腕を左右に広げられ、喉に石突が突き刺さる。
「オグェ」
10代女子からは考えられない音をこぼし、ギャルは横断歩道をのたうち回った。嗚咽混じりに咳き込んで、時折血痰を吐き出した。
痛みが落ち着いたのか、仰向けに倒れたまま荒い呼吸を繰り返す。
「続ける?」
激しく上下している胸に向かって、司は傘を突きつけた。その先端をギャルは目に涙を浮かべてを見つめていたが、反射的に傘を蹴り上げる。
布面積の少ないスカートが捲れてショーツどころか、焼いていない白い背中までまる見えになる。宙返りをした後で間合いを取った。
「やれやれ。つくづく人間離れした動きだ、ヤマンバ」
両の掌を上に向け、肩をすくめて司が言う。
「うっざい!
メイグ直ざなぎゃだじ、ゴホッ今日ばごのへんでオシマイにしたげる」
最後に凛音をひと睨みすると、歩道橋へ向かって飛び上がる。信号機、電柱、ビルへと飛び移り、すぐにその姿は見えなくなった。
ホントにヤマンバが山に帰ったのでは、と凛音は錯覚した。
「悪は去った」
司もギャルの消えた方角を眺めながら目を細めて呟いた。役目を終えた傘が光とともにカードへと戻る。
「ありがとうございました」
金のカードを胸の内ポケットにしまい、司は凛音の元へ歩み寄る。
特にお礼の言葉に反応を見せないまま、凛音の両脇に腕を入れ一息に抱きかかえた。
身体を横に返して左手で脚を支える。乙女の憧れ、所謂お姫様抱っこのポーズだ。
命の危機からひとまず脱して気の抜けた凛音だったが、自分の置かれた状況を把握して顔が火照る。
「あっあの、ケガも大したことないないし……もう歩けるから」
「でも血が出てる」
まっすぐ前を見つめ、司はこともなげに答えた。目を合わそうともしないまま歩道を歩いていく。
凛音は司の顔を上目に見た。柔らかそうなほっぺに、自分に負けず劣らずの童顔。
細腕ながらもどこにそんな力があるのか、しっかりとした安定感で揺られている。藍色の瞳は涼しげで、長いまつ毛と相まってとても大人びて見えた。
小さくてか細いのに、カッコよくて逞しい。司のギャップに凛音は心惹かれた。
だが……
「あの、やっぱり降ろしてくれない?」
「気にするな、怪我人は甘えるモノだ」
「そうじゃなくて。肩幅足りてないの分かるよね? 今膝と胸がくっついて、息が苦しいんだけど」
「そうか。悪かった、今離す」
「へっ!? ちょっとそれってどういう
ドスッ。
久尾凛音。ケガの内容に脚の擦り傷切り傷の他、腰の打撲を追加。