第二十二話 本当の結婚式
秋の晴れやかな空の下、僕は歓声を聞いた。
王都にはこんなにもたくさんの人がいたのか。
僕と姫の馬車が人々に包まれ、ゆっくりとゆっくりと、馬車は進む。
アントワネット姫は身を乗り出して王都の人々に手を振っている。
前回矢で撃たれたというのに、姫は胸を張って馬車の上で立っている。
秋の空の日光と、人々の大歓声を受けて輝いている。
ああ。
姫は生まれついての王。
僕とは違う。
僕は手袋に隠した僕の手を握りしめる。
「グレイ、あなたも立って手を振りなさい」
僕は姫に手を取られ、馬車の上で立ち上がる。
人々の波の上を、小舟のように馬車が行く。
頼りない舟の上で、姫は真っ直ぐに立ち、眩しかった。
僕たちは馬車を降り、教会に入る。
きらめくステンドグラスの明かりと、色とりどりのタペストリー。
僕は目がくらむ。
そんななか、列席者の中に、幾つかの見慣れない衣装の団体がいた。
「各国の使者も来ているのよ。笑顔で」
僕の手を引いて歩く姫は、小声で教えてくれる。
「さあ、こっちに来なさい」
僕は姫と祭壇へ進み、神官の前に立つ。
神官が神に捧げる言葉を唱える。
僕にはその言葉の意味はわからなかった。
少し経つと、姫が手を引いた。
「屈んで」
向かい合い、僕が首を下げると、姫は編み物の首飾りを僕につけてくれる。
この首飾りは、ナルタール王国の伝統で、結婚したときに新婦が新郎に贈るものだと聞いた。
言い伝えはわからなかった。ただ、姫の手が少し緊張で震えていた。
「姫、ありがとうございます」
僕は自然と姫のもう一方の手を取った。
そういえば、自分から姫の手を取ったのは、初めてのことだった。
姫はただ、輝いていた。
教会の儀式が終わった後、夕食会があった。
そこで僕は姫と少し離され、色々な国の人が次々と現れた。
いろいろな言葉で話されたため、内容はさっぱりわからず、僕は言葉の海に溺れた。
どれだけの時間が過ぎただろう。
真夜中に食事会が終わった。
僕は王宮の中を運ばれ、女官たちにブラシで体を磨かれ、すべすべとした手触りの普段着に着替えさせられた。
そして、知らない部屋に通された。
そこは小さな灯火で照らされた薄暗い部屋で、何かの香が焚かれている。
隅に大きなベッドがあった。
今まで王宮の部屋には必ずいた女官の姿が見えない。
部屋の向かい側、もう一方の扉が開き、アントワネット姫が入ってくる。
アントワネット姫の周囲にも、いつもいる女官がいない。
アントワネット姫は部屋の中に数歩入り、俯いている。
僕は考える。
なるほど、そういうことか。
僕は姫が言っていたことを思い出し、姫に歩み寄る。
姫は少し身を震わせたように見えた。
「姫、失礼いたしました。王宮の方たちが勘違いしたようですね」
姫は顔を俯けたままだ。
「私生活は別であると、僕の方からも伝えておきます。大変失礼いたしました」
姫は返事をしない。
姫の表情が見えない。
姫が左足を踏み込んだ。
胸筋が開かれ、腰が捻られ、右腕が大きく弓のように引かれ、力を蓄積する。
力の解放が始まる。
踏み込んだ左足が右足の床を蹴る力を支える。
足から伝わった力が、腰のねじれで加速され、上半身に伝わる。
その力を受けた上半身は滑らかに回転し、右手を加速させる。
その加速は、僕の予想を遥かに上回った。
僕は首の筋肉を緊張させ、衝撃に備える。
バチンッッ!
僕の脳が揺れる。
膝が震え、体勢が崩れる。
ぐらつく視界で、姫を見つめる。
「そうよ! お父さまから王座を受け継いだら、あなたなんて部屋付きの使用人扱いにしてあげるんだから! こき使ってやるんだから!」
そう言うと、姫はくちびるをきつく噛んだ。
「わかりました。では、僕は失礼します」
震える膝に力を込め、僕は立ち上がる。
「バカ!」
素早くもう一方の頬を張られる。こちらには先程のような威力はなかった。
「朝まで出られるわけがないでしょう。私はベッドで寝るから、あなたはそのソファに座って朝まで待っていなさい」
姫は長椅子を指さした。
僕は姫の手を見る。
「姫、僕の頬にぶつかったため、手が腫れています。少し冷やしましょう」
僕は布巾を水桶に浸して絞り、姫の手に当てた。
姫は大人しく、ベッドに腰掛けて座っている。
月の明かりが窓から差していた。
「グレイ、ぬるくなったわ」
姫は手を冷やす布巾を僕に何度も代えさせる。
「……グレイ、あなた拳闘ではどのくらい勝ったの?」
「はい。五十回戦って、勝ったのは十回。残りはすべて負けです」
「あなた、そんなに負けたのに生きていたの?」
「はい。致命傷を負わないように必死でした」
「よくわからないけれども、そういうものなのね」
姫は水桶の水面を見ている。
「グレイ、王宮は楽しい?」
「はい。サタナリア教官の授業がとても楽しいです」
「そう。良かったわね」
アントワネット姫は一つ息をついた。
「私に虐められるこの時間は、苦痛でしょう?」
どうなのだろう。考えていなかった。
アントワネット姫は時折攻撃を仕掛けてくる。けれども、僕が耐えられる範囲だ。これは問題がない。
他になにか苦痛はあるだろうか?
寒くない。腹も空いていない。虫もいない。
「いいえ、苦痛ではありません」
アントワネット姫は僕の頬に触れた。打ったわけではなかった。
「あなたはどうして耐えられるの?」
なんだろう。何を求められているのだろう。
「国王陛下に呼ばれ、王宮に来てから、たぶん、僕は幸せです」
アントワネット姫は僕の頬に手を押し付ける。
「結婚相手を勝手に決められて、決闘させられて、戦争させられて、化け物とも戦って……幸せっていうの?」
僕は麦粥と地下室を思い出す。
「はい。幸せです」
あ、でも。
「姫は幸せではありませんか?」
姫は僕の頬をつねった。
「知らないわよ。そんな事」
姫はつねる手を離す。
「あなたを打った私の右手」
「はい」
「腫れて痛いから、朝まで冷やしていて」
「はい。お眠りになりますか?」
「眠るかも。でも、ずっと冷やしていて。いい、ずっとよ」
「はい。わかりました」
空は白み始めていた。
僕は、この静けさに身を委ねた。けれども、静けさからしばらく離れなければいけないことを、まだ知らなかった。




