36.夜会が、始まりました
レメディア王国では、社交の季節になると貴族たちがこぞって茶会や夜会を開く。
その幕開けを飾るのが、王家主催の三日間にわたる催しだった。
初日は夜会。二日目は茶会。そして最終日は大舞踏会。
社交界に身を置く者なら誰もが最重要視する、一年で最も華やかな行事である。
そして今日、ネアは『王妃の客人』として、アスヴァルドのエスコートで夜会に参加することになっていた。
「胃が痛い……」
ソファに腰掛けたまま、先ほどからキリキリと痛む胃を押さえながら呟くと、マリエルが心配そうに眉を下げる。
「まあ、大変。胃薬をお持ちいたしましょうか?」
「だ、大丈夫です。少し緊張しているだけなので……」
かつて婚約者に捨てられた平民のネアに、社交界の人々がどんな目を向けられるかも気がかりだ。だがそれ以上に、王妃の客人として相応しい振る舞いができるかどうかが不安だった。
「どうかご安心なさってください。マナーの先生も、セレネア様のことをどこに出しても恥ずかしくない淑女だと褒めていらっしゃいましたよ」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると、少し気が楽になります……」
ネアは十三歳で父が亡くなるまで、家庭教師から一通りのマナーや勉学を教わっていた。しかしそれから六年――何の準備もなく社交の場に臨むには、さすがに懸念が残る。
そのことを王妃に相談すると、彼女はわざわざネアのためにマナー教師を付けてくれたのだ。
魔法塔での仕事を終えた後、遅くまで付き合ってもらった成果が、少しでも現れているのだとしたら嬉しいことだ。
とはいえ、完全に緊張が解けたわけではないのだが。
胃の痛みに耐えながら過ごしていると、やがて客間の扉を叩く音が聞こえてきた。
「セレネア嬢。私です」
遅れて聞こえてきたアスヴァルドの声に、胃の痛みが完全に吹き飛ぶ。
ぐったりとソファの背もたれに身体を預けていたネアは、即座に姿勢を正して立ち上がった。
マリエルが扉を開けるなり、アスヴァルドが姿を現す。
「失礼します――」
客間へ足を踏み入れた瞬間、彼がかすかに目を瞠った気がした。
だが、それも一瞬のこと。アスヴァルドはすぐに、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべる。
「間もなく夜会の刻限ですので、お迎えに上がりました」
「わ、わざわざ申し訳ございません……」
「いいえ、これが私の役目ですから」
今宵の彼は、深い藍色の礼装を身にまとっていた。
上着のボタンや袖口の縁飾りには銀色の刺繍があしらわれ、藍色の布地の上で、まるで夜空に浮かぶ星のように品良くきらめいている。
胸元にはレメディア王家の紋章を模したブローチが輝き、白い手袋やクラヴァットは一部の隙もなく整えられていた。
雪のように美しい銀の髪や、理知的な青灰色の瞳との色合いもぴったりな装いに、思わず見とれてしまう。
それをごまかすため、ネアはあえて軽い調子で話しかけた。
「素敵なご衣装ですね」
「本来なら軍服を着るべきなのでしょうが、どうやら私の軍服姿は威圧感があるらしく……。兄から〝若い令嬢が怖がるから〟と止められまして」
ネアとしては、軍服姿のアスヴァルドもきっと美しいだろうと思うのだが――。 彼ほど身長が高く、たくましい身体つきをしていれば、確かに社交界デビューしたての若い令嬢はおびえてしまうのかもしれない。
「セレネア嬢の装いもとても素敵ですよ」
「あ、ありがとうございます。王妃殿下に助言をいただいたおかげです」
今夜のネアを彩るドレスは、薔薇色だ。
熱砂の国から輸入した透けるほど繊細な絹を幾重にも重ね、小さく砕いた宝石をたっぷりと裾にちりばめている。
首元には、ドレスと同系色の濃い紅色のガーネットの首飾りを。髪はハーフアップでまとめ、白い造花の髪飾りを挿した。
昨今流行の、袖や裾がふんわりと膨らんだ形のドレスではない。しかし、細身のネアにはすっきりとしたシルエットのドレスのほうが似合う、という王妃の言葉によって、伯母が選んだものだった。
「きっと、若い紳士たちがこぞってあなたにダンスの申し込みをするでしょうね」
「……っ」
とっさに返事ができなかった。
他の誰より、ダンスを申し込んでほしい相手が目の前にいるのに――彼がネアの手をとることは、決してないのだから。
「わたしにはもったいないお言葉です。ですが殿下にご迷惑をおかけしないよう、精一杯努めます」
今はただ、無理矢理浮かべた笑みが引きつっていないことを祈るだけだった。
§
ネアたちが到着した時、すでに広間は大勢の招待客たちで賑わっていた。
老いも若きも、めいめいが華やかな衣装に身を包み、和やかに談笑している。
中には、今日が初めての社交界というような初々しい令嬢もおり、お目付役らしき夫人にぴったりと引っ付いていた。
アスヴァルドと共に扉をくぐるなり、あちらこちらからひそやかな囁きが聞こえてくる。
「まあ、ノルデン大公殿下よ。王都にいらしているとは伺っていましたけれど、夜会にいらっしゃるなんて珍しい」
「お隣の美しいご令嬢はどこのどなた? お見かけしないお顔ですわね」
「まさか、大公殿下の……? これまで浮いた噂のひとつもなかった殿下が、とうとうお相手を決めたということか?」
ただでさえ目立つアスヴァルドの隣にいるせいで、ネアまで注目を集めてしまっている。
人々の口の端に上る居心地の悪さに強ばっていると、突然、トランペットの音が鳴り響いた。
「国王陛下、および王妃殿下ご入場――!」
重々しい侍従の宣言に、招待客たちが一斉に臣下の礼をとる。
ネアも慌ててドレスをつまみ、腰を落とした。
静寂に満ちた広間に、やがて硬い靴音が響く。その音が止むと同時に、玉座のほうから厳かな声が聞こえてきた。
「今宵、遠路より我が王宮に集いし我が臣下たちよ。楽にせよ」
王の呼びかけに応じて、皆ゆっくりと顔を上げる。
視線の先には、玉座を背に王と王妃が堂々と佇み、広間を見渡していた。
「皆の日頃の働きのおかげで、我がレメディア王国は今日も平穏を保っている。王として、皆の献身に深く感謝する。どうか今宵は肩の力を抜き、互いに語らい、よき縁を結んでほしい」
国王の言葉は力強く、そして臣下たちへの慈愛に満ちていた。招待客たちの表情がかすかに和らぐのが、ネアにもわかる。
「――それでは、今宵の夜会を開宴する」
国王の言葉を受け、指揮者が指揮棒を振り下ろした。それを合図に、楽団が緩やかに音楽を奏で始めた。




