33.元婚約者の近況を、知りました
「えっ。それじゃルシ――いえ、モンフェール子爵令息と彼女は、別れたんですか!?」
「ネアちゃん、声大きい。まぁ皆知ってるし、今更聞かれて困る話でもないか……」
午前の仕事を終え、昼休憩の時間である。
恐れていた第一研究室での初業務は、あっけないほど順調に終わった。
魔法塔きっての精鋭たちは、くだらない噂話には興味がないらしい。皆、ネアとルシアンの間に巻き起こった騒動など知りもしないというような顔で、友好的に接してくれた。
成り行きでフェリクと共に食事を取ることになったネアは、魔法塔付属の食堂でオムライスをつつきながら、ルシアンについて信じられない話を耳にした。
「す、すみません。でも、あんなに親密そうだったのに破局なんて……」
「そりゃ、相手が人妻――それも貴族の夫人じゃどうしようもないでしょ」
「ひ、人妻!?」
またしても大きな声を上げてしまったが、さすがに許してほしい。
(だって、人妻って……。あんなことをしておいて……?)
思い出すのは、夜の庭で半裸で抱き合っていたふたりの姿。
思わず目を覆いたくなるほどにあられもない格好をして、愛を囁き合っていたではないか。
「えっと、つまりシェイラさんの不倫……ってことですか?」
「そう。シェイラ――アルマン男爵夫人のほうは、そういうのの常習犯でね。身分を隠して、一時の火遊びを楽しんでいたらしい。だけど、予想外にモンフェール子爵令息が本気になったってわけ」
フェリク曰く『真実の愛』にのぼせ上がったルシアンは、あの婚約発表の夜会の日、自身の父にシェイラを新しい婚約者として紹介しようとしたようだ。
しかしそこにアルマン男爵が乗り込んできて――という顛末らしい。
(そういえばシェイラさん、ルシアンの求婚にあまり乗り気じゃなかったけど……。そういうことだったのね)
今更になって、あの時の彼女の態度の理由を知って納得した。
そして就業前にネアに絡んできた女性職員たちの文句が、完全に言いがかりであることもわかった。
「知らなかったとはいえ、人妻に手を出した上に正式な婚約者である君を蔑ろにしたわけで……。モンフェール子爵令息は父君からこっぴどく叱られ、王家からも窘められたようだよ」
「そんなことがあったなんて……。モンフェールのおじさまが、気に病んでいないといいのですが」
「子爵は息子にいたく落胆されたようでね。しばらく社交界に顔を出すなと厳命したそうだけど、息子のほうはどこ吹く風。懲りもせず新たな良縁を探して、夜な夜な夜会を練り歩いてるらしい」
ルシアンのことを前々から愚かだと思っていたが、予想以上に愚か者だったらしい。モンフェール子爵の心痛を思うと、頭が痛くなる。
しかし今となっては、そんな浅はかな男性と縁が切れてよかったというべきなのだろう。
(おじさま、大丈夫かしら……)
ルシアンに婚約破棄された後、一度謝罪の手紙を送ったが、返事は来ずじまいだった。ネアに怒っているだけならまだいいが、心労でそれどころではないのだとすれば、そちらのほうが心配だ。
(今度、もう一度手紙を送ってみようかしら……)
ルシアンとは縁が切れたが、モンフェール子爵にこれまで受けた恩を忘れたわけではない。婚約破棄の件で彼がネアに悪感情を抱いていたとしても、事情を知った上で無視するのは気が引ける。
「モンフェール子爵令息も見る目がなかったってことだね。俺だったら、こんなに可愛い婚約者を手放したりなんてしないのに」
「もうそれはわかりましたから……」
「あっ、冗談だと思ってる? 俺、本気でネアちゃんのこと気に入ってるんだからね」
「そんなに本気だって言うなら、今度夜会で会ったらファーストダンスでも踊ってくださいます?」
どうせ無理に決まっているから、こんな軽口も余裕で叩けるというものだ。
先ほど本人も言っていたように、フェリクのような美男子は、社交界において取り合い必至の優良株。
そしてレメディア王国社交界では、ファーストダンスとは基本的に『将来を考える相手』と踊るものとされている。
あまたの令嬢が彼とのファーストダンスを狙って列をなす中、ネアのような平民に構っている余裕はないのである。
「ファーストダンス? もちろんいいよ。二曲目も三曲目もネアちゃんのために開けとくね」
「はいはい。そのお言葉だけ、ありがたくちょうだいしておきますね」
今日一日で、大体フェリクの扱いにも慣れてきたところである。
彼の軽口を適当に受け流したネアは、今度開かれるという王家主催の夜会に思いを馳せた。
王妃から出席を勧められ、顔を出す予定ではあるものの、ネア自身は出会いを探すつもりなど毛頭ない。
失った恋を埋めるために新しい恋を見つけるなんて、相手にも申し訳ないし、それにヴィル以上に好きになれる人を見つけられる気もしなかった。
§
終業後、夕暮れに染まる魔法塔の門前でネアが待っていると、飾り気のない焦げ茶色の馬車が静かに停車した。
「セレネア様、お迎えに上がりました」
馬車の中から現れた若い王宮女官――地味な平服に身を包んでいる――が、ネアに向かって恭しく頭を下げる。
王宮からの迎えの馬車だ。けれど、馬車にはそれとわかる装飾は一切ない。
国王と王妃の配慮だった。夜会で正式に紹介されるその日まで、王妃の客人が誰であるかを不用意に知られぬよう、送迎も極力人目を避けた形で行われているのである。
そのおかげで、周囲にはせいぜい『親戚の家に厄介になっているらしい』という程度の認識しか広まっていない。
「――研究室でのお仕事はいかがでしたか?」
動き出した馬車の中で、女官は興味津々といった表情で口を開いた。
マリエルという名の彼女は、ラーラ男爵家の令嬢で、元々は王妃付きの女官だった。ネアと年齢が近いということもあり、王妃の計らいで、滞在中の案内役兼相談役を務めてくれている。
平民である自分が、男爵令嬢の手を煩わせるなんて――と恐縮しきりだったネアだが、マリエルは『王妃殿下の大切なお客さまを任されて光栄です』と張り切った様子だ。
いつも明るく、細やかな気配りを欠かさない彼女のことを、ネアはたちまち好きになった。
「皆さん、とてもよくしてくださいました。すごく研究熱心で、刺激される部分も多かったです」
「それは何よりです。カレンドラ王立魔法塔支部研究所の所長も、セレネア様のご活躍に期待なさっておいでですので」
今回、ネアが第一研究室へ迎えられた背景には、例の所長の強い後押しがあったらしい。
ネアが五級魔法士であることにも驚いていた彼だが、元々資料室勤務ということを知るなり、頭を抱えたそうだ。
『彼女の稀有な才能を、資料室などで埋もれさせるのは惜しい』と主張し、自ら第一研究室への配属を勧めてくれたのだ。
自分に特別な才能があるなんて、ネアには今でも実感がない。しかし、夢だった宮廷魔法士への道が近づいたことは、ありがたい限りである。
そうしてマリエルと他愛もない話をしている内に、馬車は王宮の裏門へ到着した。
目立たぬよう使用人用の通用口を通り、与えられた客間へと戻る。
室内には複数の侍女が待機しており、ネアが足を踏み入れるや否や荷物を受け取り、ローブを手際よく脱がせた。
「お帰りなさいませ、セレネア様。本日は王妃殿下との会食でございます。お召し替えの後、翡翠の間へご案内いたします」
流れるような業務連絡にあたふたしていると、代わりにマリエルが受け答えをしてくれる。
「セレネア様のお湯浴みのための支度は済んでいる?」
「はい、マリエル様のご指示通りに」
「それでは、軽くお湯浴みを済ませてから参りましょう」
あれよあれよという間に浴室へ促されたネアは、湯を浴びてさっぱりした上で、侍女たちの用意してくれたドレスに着替えることになった。
今日のドレスは、夜空を思わせる濃紺のシフォン生地に、星々を思わせる銀糸の刺繍が細やかな一着だった。決して派手な装飾はないものの、胸元から裾に掛けて流れるように施された意匠が、光を受けるたび控えめに輝く。
花弁のように幾重にも重ねられた裾は、歩くたびに揺れ、青にも紫にも色彩を変えて見えた。
髪は編み込んだ上でひとまとめにし、宝石を施した銀色の髪飾りで彩る。
軽く化粧を施し終えた後、隣室にいるルヴェナと合流し、マリエルの案内で琥珀の間へ向かうことになった。
「ネアちゃん、お帰りなさい。お仕事はどうだった?」
何もかも慣れぬ環境の中、いつもと変わらぬ伯母の態度にほっと安心する。
「最初はやっぱり色々ありましたけど、研究室の先輩は、皆さん親切な方ばかりで安心しました」
「そう、それならよかったわ」
ルシアンのことなど、話したい話題は他にもあった。しかしマリエルや侍女たちの手前、当たり障りのない会話にとどめておくことにする。
(それにしても王妃殿下とお食事なんて、少し前のわたしが知ったら卒倒するかも)
『王妃のお気に入り』という触れ込みに信憑性を持たせるため、王妃はネアが夜会に参加する前に、交流を深めておきたいと思っているらしい。
できる限り食事やお茶の時間を共に過ごし、会話の時間を持ちたいのだと言っていた。
光栄を通り越して畏れ多さすら感じられる配慮だが、マリエル曰く『王妃殿下は本当にセレネア様との会話を楽しみにしていらっしゃるのですよ』とのことである。
(王妃殿下のために、少しでも楽しい話題を提供できればいいんだけど……)
そんなことを考えているうちに、翡翠の間へ到着した。
扉の前に佇む人影を認めるや否や、マリエルや侍女たちが一斉に恭しく腰を落とした。
「――大公殿下」
ネアもルヴェナも、一拍遅れて礼の姿勢を取る。
アスヴァルドが、軽く苦笑しながらネアたちに声をかけた。
「どうか楽になさってください。客人にまで気を遣わせたとあっては、義姉上から小言をいただいてしまいます」
恐る恐る顔を上げると、青灰色の瞳と目が合う。
彼は少し微笑むと、ネアに向かって自然に腕を差し出した。
「次の夜会までに、エスコートに慣れていただくように――と義姉から申しつけられております」
義姉から申しつけられている――その一言だけで十分だった。彼の優しさは義務であり、責任でしかないのだと痛感する。
それでも、ネアは彼の手を拒むことはできなかった。
――すぐ隣に、アスヴァルドがいる。祭りの夜、ヴィルと手を繋いで歩いた時と同じくらいの距離で。
それなのに、あの夜よりも彼はずっとずっと遠かった。




