03.おじさま、拾いました
魔法塔を解雇されたからには当然、宿舎も出て行かなければならない。
僅かな荷物と貯金を旅行鞄に詰めたネアは、その足で辻馬車の停留所へ向かった。
王国東部イルフェン地方――そこにあるネグリンという町に住む伯母、ルヴェナを頼るためだ。
母の姉であるルヴェナは未亡人である。夫の遺した貿易会社を営む傍ら、喫茶店を経営しているらしく、最近は客足も伸びて順調だと以前貰った手紙に記されていた。
急なことで先触れを出す暇もなかったが、あの大らかな伯母ならばきっと、ネアを受け入れてくれるだろう。
そうでなくとも両親を若くして亡くし、兄弟もないネアが頼れる相手は他にいない。
いくつかの辻馬車を乗り継ぎ、宿で身体を休め、また辻馬車に乗り――。そうしてようやくネグリンに到着したのは、王都を発って七日ほどが経過した、早朝のことだった。
伯母の経営する喫茶店は、賑やかな商業区画から少し離れた、川沿いの閑静な旧市街の一角に佇んでいるそうだ。
近隣には小さな美術館やアトリエ、図書館などがあり、知る人ぞ知る観光名所として密かに有名らしい。
地図を片手に、静けさに包まれた表通りから小道に逸れ、小一時間ほど歩く。
体力にはそれなりに自信があったが、長旅で疲れていたためか、目的地に到着した頃には少し息切れしてしまっていた。
「あった……」
川沿いの石畳を少し進んだ先に、ひっそりと佇む白い建物を見つけ、ネアは小さく声を上げた。
まるでおとぎ話に出てくる、魔女の庵のようだ。
白い漆喰に古びた石が積まれた外壁には青々とした蔦がからみ、深い焦げ茶色の窓枠の向こうには、可愛らしい陶器の置物や古書が見える。
そして重厚な木製扉には木掘りの看板が掛けられていた。
『琥珀亭』
ネアは伯母から聞いていた通りの店名に安堵し、駆け寄ろうとする。しかしふと、店のすぐ側に何か黒い塊があるのを見て、足を止めた。
(ゴミ――?)
不法投棄にしてはやけに存在感のある巨大な塊に、恐る恐る近づく。
そして。
(えっ、違う。これ、人だわ!)
黒い塊と思っていたものに手足があることに気づき、飛び上がらんばかりに驚いた。
うつ伏せに倒れているので顔は分からないが、立派な骨格から、成人男性であることだけはわかる。
酔っ払いが家に帰り着く途中、うっかり眠ってしまったのだろうか。
王都の歓楽街ではよく見る光景だが、こんな閑静な田舎町にはあまり似つかわしくない状況だ。
「あ、あのー……。すみません、大丈夫ですか?」
恐る恐る声を掛けてみるが、返答はない。
息を詰めながら地面に膝をついたネアは、男性の全身が濡れていることと、彼の銀色の髪に赤茶色の汚れがあることに気づき、青ざめた。
(こ、こ、これって血よね……。まさか、死――)
どっ、どっ、どっ、どっ、と心臓が早鐘のように鳴る。
最悪の可能性にごくりと息を呑みながら、そっと男性の身体を揺さぶった。水に濡れているためか、彼の身体はひんやりと冷たかった。
しかし。
「うー……ん……」
「よ、よかった! 生きてる! あの、大丈夫ですか? すごい大怪我をなさっているみたいなんですが、頭は大丈夫ですか!?」
慌てふためくあまりかなり失礼な物言いになってしまったことに気づかないまま、ネアは必死で男性に呼びかける。
しかし返事はなく、焦ったネアはすっくと立ち上がり、琥珀亭の扉を勢いよく叩いた。
「――伯母さま、伯母さまぁぁぁぁぁ!!」
周辺に民家がないのをいいことに大声で叫び続けていると、やがて扉が内側からゆっくりと開かれる。
「――はいはい、どうしたの。朝から騒々しいわねぇ」
扉の向こうから現れたのは、黒いドレスの上に濃い紫のショールを羽織った女性だ。
ネアの伯母、ルヴェナである。
ネアの母とは年の離れた異母姉である彼女は、今年でもう五十歳になるはずだが、見た目はまだ三十前半ほどにしか見えない。
目を擦りながら眠たげな表情で登場した彼女だが、ネアと目が合うなり、瞳を輝かせてぱっと笑顔を浮かべた。
「……ってあら、ネアちゃん! 久しぶりねぇ。少し痩せた? 訪ねてきてくれて嬉しいわ。あのねぇ、最近あたし、犬を飼い始めて」
「お久しぶりですルヴェナ伯母さま! でも今、世間話してる場合じゃなくて! そこに倒れてて! 人が! 結構な大量出血で!」
要領を得ない説明に、ルヴェナは小首を傾げながらネアの指さした方向に視線をやる。そしてようやく、そこに倒れている男性に気づいたらしい。
「あらあら、まぁまぁ。これは大変ねぇ」
頬に手を当てながら、おっとりとそう言った。
あたふたとするネアとは正反対に、落ち着いた態度で男性の様子を確認した彼女は「ご近所さんに助けを求めてくるわ」と言い残して道の向こうへ消えていく。
程なくして戻ってきたルヴェナは、背後に四人の屈強な青年を従えていた。
「姐さん! これがその怪我人ですかい!」
「ええ、そうなの。うちの店の側に倒れてるのを、姪が見つけて。とりあえず二階の客間に運んでくださる?」
「姐さんの頼みなら、喜んで!」
「それなら俺は、今のうちに医者を呼んできやす!」
若い頃から『傾城』と名高かった伯母は、未亡人となった今も、多くの男性を魅了しているようだ。
「ありがとう。お願いねぇ」
ゆったりとした微笑みを送られた青年達は、皆見事にだらしなく顔を緩ませている。
とにもかくにも、男性は残った三人の青年たちによって、客間へと運ばれることとなった。
屈強な青年三人がかりでも、大柄な男性を二階まで運ぶのは結構な重労働らしい。彼らは「うっ」「重っ」などと逐一苦痛の声を上げながら、なんとか男性を寝台に横たえることに成功していた。
寝台に横たわる男性はまるで、古代神を象った彫刻のようだ。
目を瞑っていても分かるほどに顔の彫りは深く、恐らく大変な美形であることが推察される。
「それにしたって、ずいぶん大柄な男だ。魚屋のエンディよりデカいんじゃねぇか?」
「三十代後半――いや、四十代ってとこか? 銀髪なんて珍しい」
「北部出身かねぇ。この辺の人間じゃなさそうだ」
寝台を覗き込んだ青年たちが、口々にそんなことを言う。
ほどなくして医者も到着し、診察が始まった。
――その結果、男性の頭部の怪我は出血こそ派手だが、傷自体はそう深くないことがわかった。
診察の途中で目を覚ました男性は、医者の質問にハキハキと答え、一見すると何も問題ないように思えた。
そう。
医者が彼に、こんな質問をするまでは。
「それで、アンタはどこから来たのかね? この辺で倒れてたってことは、観光客か何かかい?」
男性は眉根に軽く皺を寄せ、しばし考え込む様子を見せる。
そして――静かな口調で言った。
「すみません。何も、覚えていないんです。自分がどこから来たのかも、自分の名前すらも」




