カフェキュウビの日常1話7
そうして、何日か過ぎたある日のこと。
夜も更けた頃、光太は一人、近所のコンビニに行こうと外に出た。ひんやりとした夜風が心地よい。道には人影もなく、静かだった。
信号待ちをしていると、目の前に一台の赤い車が止まった。丸みを帯びたレトロなボディ。見たところかなりの年季ものだが、ピカピカに手入れされているのが分かる。
そのとき、運転席の窓が開き、助手席のドアがカチャリと開いた。
「ほれ、のれ」
椿だった。身を乗り出して、当然のように声をかけてくる。
「ええ、はい」
コンビニなんていつでも行ける。光太は少し戸惑いながらも、素直に車に乗り込んだ。
「どうじゃ、可愛らしいじゃろ? スバル360じゃ」
椿はどこか自慢げに、ハンドルを軽やかに操っていた。
「はい、なんかジブリのアニメとかに出てきそうな車ですね」
「うむ、わかっておるな」椿はうんうんとご機嫌で頷き、口笛を吹き始めた。
曲名は分からない。けれど、不思議と懐かしい響きだった。
車は隅田川大橋を渡り、門前仲町を抜け、やがて豊洲方面へ向かう。
煌びやかな夜の街並みを走り抜け、やがてゲートブリッジへ。
風を切って走るその感覚に、光太は自然と目を細めた。
海の上に伸びる巨大な橋の上、左右には東京の夜景が広がっていた。
──あの光の中にも人の暮らしがあるんだな──
眩いビルの灯り、船の明かり、遠くの観覧車……
光太は、なぜだかこの世界がとても広く思えた。
橋を渡りきると、椿は道の端に車を止めた。
ふたりで外に出て、夜風に当たりながら、背伸びをする。
椿は懐から煙管を取り出して火をつける。煙がふわりと漂う。
光太は空を見上げた。
大きな月が浮かんでいた。澄んだ空に、滲むことなく輝いている。
ふたりはしばらく、言葉もなくその月を眺めていた。
数日間の出来事が、光太の脳裏をよぎる。
狐と狸、カフェでのバイト、椿のこと、キヌや権助のこと……
ほんの少し前までは、想像もしなかった毎日だ。
10分ほどたったころ、椿がぽつりとつぶやいた。
「帰るか」
光太はうなずいた。特に言葉はいらなかった。
そのままふたりは車に乗り、夜の東京を静かに戻っていった。
光太はコンビニに行くことをすっかり忘れていた。
けれど今日はもう、別にそれでいいと思った。
帰って布団に潜り込むと、すぐに眠りについた。
月の残像が、瞼の裏にぼんやりと残っていた。