第二十五話 色欲のアスモデウス
色欲のアスモデウスの配下、サキュバスの進軍が続いていた。
――ホホホホホホホホホ……
――ホホホホホホホホホ……
笑い声にも聞こえる声を上げながら、美女の軍団が侵攻してくる。
人に近い姿をしているとは言ってもサキュバスは魔物、言葉を喋ることはできない。
ただ、まるで動かない笑顔と、笑い声に聞こえる声を上げながら押し寄せて来るのだ。
ホートリア王国の軍は弓矢と理術の遠距離攻撃でその数を減らし、それでも進んでくるサキュバスを剣を持った歩兵が食い止めていた。
サキュバスは遠距離攻撃能力を持たない。だからホートリア王国軍の矢や理術攻撃で一方的に数を減らしていた。
そしてサキュバスの近接戦闘能力はゴブリンよりも少し高い程度だという。現に、サキュバスの攻撃は兵士の持つ盾に止められ、そのまま剣で斬り伏せられていた。
また、サキュバスを生み出すためにはゴブリンよりも時間がかかるらしい。過去の戦いにおいても、色欲のアスモデウス率いるサキュバスが早い時期に現れたことはほとんどないという。
実際、サリオス帝国を襲撃したゴブリンの総数は五万体に及ぶと推定されていた。
ここまで聞くと、サキュバスは他の魔物に比べて大したことが無いように思うかもしれない。
しかし、仮にも七魔将が率いる魔物がそう甘いはずがない。
「サキュバスは『魅了』の魔法を使ってくるのです。」
突然、最前線でサキュバスと戦っていた兵士の一人が動きを止めた。目は虚ろになり、剣と盾を持った両手はだらりと下がった。
それは一瞬のことで、兵士も即座に剣と盾を構え直そうとした。だが戦場ではその一瞬が命取りだった。
「ぐがっ!」
サキュバスの指が喉笛に突き刺さり、兵士は悲鳴も上げられずに倒れた。女性の細い指に見えるが、そこはサキュバスも魔物だ。まともに喰らえば肉を裂き骨を砕く力がある。
すかさず周囲の兵士がフォローしたが、まともに攻撃を食らった兵士は既に事切れていた。
「気を抜くな! 意識をしっかりと保っていないと、『魅了』にやられるぞ! 精神の疲労を感じたら、無理せず後ろの者と交代して休むんだ!」
サキュバスの『魅了』はそれほど強力な魔法ではない。成功率は低いし、精神力で抵抗することも可能だ。
しかし、確率は低くても数多くのサキュバスがしつこく『魅了』をかけ続ければ何時かは成功するし、戦い続ければ精神も疲弊し抵抗に失敗する可能性も高くなる。
残酷な言いようだがこれは戦争、味方に死傷者が出ることは想定の範囲内だ。だがサキュバスの、『魅了』の脅威はそれだけにとどまらない。
「うわぁ、何をする止めろー!」
「ウオォォー!」
最前列でサキュバスと戦っていた兵士の一人が、突然振り返り、味方を攻撃し始めた。その背後にはまるで兵士に庇われるようにサキュバスがいた。
「サキュバスの『魅了』に完全にかかってしまうと、敵に操られ、味方を攻撃するようになるのです。」
これがサキュバスの真の恐ろしさだった。
一人魅了されてしまえば、こちらの戦力は一人減り、敵の戦力が一人増える。
「いかん、急いで殴り倒せ! 無理ならば迷わず斬り殺せ!」
指揮官が非常の命令を下す。だが、いくら非常でもやらなければ被害が増すだけだ。
この味方を倒さなければならないこと、そして自分も操られて仲間に刃を向けるのではないかという恐怖。これらが兵士の士気を下げる。士気の低下は、『魅了』への抵抗力を下げる悪循環を生み出す。
サキュバスの『魅了』の効果は永続的なものではない。時間と共に効果が弱まり、強い意志があれば自力で打ち破ることも可能だ。しかし、常にサキュバスが近くにいて『魅了』をかけ続けていたら、自力で正気にを取り戻すことはまず無理だろう。
だから、なるべく急いで操られている兵士を拘束し、サキュバスから引き離す必要があった。
ここで手間取っていると、さらに別の兵士が次々と『魅了』にかかり、人間同士で戦うことになりかねないのだ。
「最悪、操られた兵士に守られたサキュバスが次々に兵士を『魅了』で支配して行き、サキュバスに操られた人間の軍隊ができてしまうのです。」
姫様の言う、「勇者様を殺す可能性」とはこのことである。魔族や魔物に対しては無類の強さを誇る勇者も、人間相手ではそこまで優位に戦うことはできない。
過去、サキュバスに操られた人間の軍隊ができてしまった時には、サキュバスと操られた兵士を北方三国連合軍が数で抑え込んでいる間に勇者が色欲のアスモデウスを討ったのだが、多大な犠牲者を出すことになったという話だ。
サリオス帝国が色欲のアスモデウスの討伐を優先したのも同じ理由からだ。
暴食のベルゼブブも厄介な強敵ではあるが、人間の兵士を取り込んで増強された色欲のアスモデウスの軍団もそれ以上に戦いたくない相手だった。
この難敵に対して、ホートリア王国は切り札を投入した。
「『魅了解除』!」
「……ハッ! 俺は何を!?」
サキュバスに操られていた兵士が正気を取り戻した。状況を把握すると即座に振り向き、背後で『魅了』をかけ続けていたサキュバスを斬り伏せた。
兵士を正気に戻したのは、味方の放った理術である。
ホートリア王国軍に所属する理術士、その中でも攻撃を担当する理術兵ではなく衛生兵に属する者達。
本来ならば後方で負傷者を治療する役割の彼らを、サキュバスの『魅了』に対抗するために最前線に連れ出したのだ。
もちろん本来戦闘要員ではない、戦場に出てきても後衛である理術士の彼らを前面に押し出しても危険なだけだ。
そこで状態異常からの回復を得意とする治癒理術士達を中心に、精鋭の兵士で周囲を固めた遊撃部隊を編成したのだ。
対女淫魔遊撃隊。それが今回の切り札だった。
ホートリア王国では戦闘領域を三種類に分けて考えていた。
一つは、最前線の兵士から一ガルス以内、剣や槍で戦う接近戦の領域。
一つは、五ガルスから十五ガルスの範囲、弓や理術で狙う遠距離攻撃の領域。
そして最後の一つは、一ガルスから五ガルスの間、剣や槍は届かないが味方を誤射しないために遠距離攻撃も控えている中間領域。
戦闘が続くと、この攻撃の届かない中間領域に留まる敵が増えて来る。
通常の魔物ならば中間領域にいるのは攻撃に参加しない遊兵だから無視してよい。しかし、サキュバスの場合、その中間領域からも『魅了』を使って来るのだ。
『魅了』のような状態異常系の魔法の類は、距離が離れると成功率が下がる。しかし、中間領域くらいの距離でも数がいると無視できない脅威になってくる。
そこで、中間領域に留まるサキュバスが増えてきたところで出動し、その数を減らすとともに『魅了』を受けた兵士を回復していくのが対女淫魔遊撃隊の使命である。
『魅了』によって操られ、敵側の取り込まれる兵士をほとんど出さずにサキュバスの軍団を削り切れば色欲のアスモデウスに勝利したことになるのだ。
今、満を持して対女淫魔遊撃隊が動き出した。
ホートリア王国が切り札とするだけあって、対女淫魔遊撃隊は精鋭揃いだ。
それはつまり、理術士も周囲の兵士も理力の多い者が集まっているということだ。
サキュバスの『魅了』の魔法は魔物が魔力を使って行われるが、基本的に理術と同じものだ。理力が多い相手には成功率も下がる。
もちろん精神力も高い者たちだから『魅了』に抵抗することも容易だ。さらに、
「『精神高揚』!」
精神的な疲労を緩和し、士気を高揚する補助系の理術を併用すればまず『魅了』にかかることはない。たとえ『魅了』されたとしてもすぐに回復することができる。
『魅了』が通用しなければサキュバスはそれほど手強い相手ではない。
それでも非戦闘員や理術士の人間が直接相対するには危険な相手だが、治療理術士を取り囲む兵士達は全身鎧の上タワーシールドまで装備してサキュバスの攻撃を寄せ付けない。
そして手にした剣で次々にサキュバスを屠って行くのだ。
重装備のためあまり移動速度は速くないが、治療理術士の足に合わせるならばちょうどよかった。
対女淫魔遊撃隊は、一般の兵士が魔物に取り込まれるのを防ぎつつ、着実にサキュバスを殲滅して行った。
戦いは順調に進んでいた。このまま進めば大きな被害もなくサキュバスを撃退できるだろう。
だがこのまま終わるはずがない。魔族だって魔物を使い潰すつもりでこの戦いに挑んでいるのだ。人類側に大した被害を与えずに終われるはずがなかった。
その時は唐突に訪れた。
「ぐっ、……これは!」
対女淫魔遊撃隊がその歩みを止めた。
「色欲のアスモデウス、もう出てきたのか!」
魔族が接近したことによる影響が出ているのだ。
理力を多く保有する精鋭だけに、その効果は絶大だった。
治療理術士達は理術が使えなければほぼ無力だ。周囲の兵士も鎧が重くのしかかり、まともに動くこともできなかった。
この状態で攻撃を受けると危険だ。だがサキュバスは攻撃を仕掛けてこなかった。
代わりにこの事態を引き起こした元凶が現れた。
身長は二メートル弱。これまで現れた魔族の中では最も小柄だ。
雪のように白い肌。
黒檀のように黒い髪。
血のように赤い唇。
整った顔の、その額から伸びる一本の角。
七魔将唯一の女性型魔族。
色欲のアスモデウス。
それはサキュバスの上位版とでもいう存在だった。
いや、色欲のアスモデウスの劣化コピーがサキュバスだというべきか。
サキュバス以上に美しい顔と豊満な肉体、それを包む扇情的な衣装。下手な男よりも大柄で額に角が生えていいるが、豊かな感情を表す表情はよほど人間味がある美女だった。
そして、その能力もサキュバスの上位互換だった。
「うっ……」
一瞬で遊撃隊の皆の動きが止まった。その表情は一様に虚ろだ。
色欲のアスモデウスの能力は『色欲の誘惑』という。効果は『魅了』と同様、それもサキュバスよりも遥かに強力なものだ。
理力を封じられ、そのことで動揺している隙に、サキュバスよりも強力な『色欲の誘惑』をかけられてはひとたまりもない。
アスモデウスは抵抗の無くなった遊撃隊に歩み寄り、周囲の兵士や治療理術士を押しのけて中央にいる隊長に詰め寄った。
「さぁて、勇者はどこだい?」
色香の漂う声で、色気のないことを聞くアスモデウス。
操った人間を自分の盾にして同士討ちさせるくらいしかできないサキュバスと異なり、アスモデウスの『色欲の誘惑』は細かなことができた。
「ゆ、勇者様はいない……。」
アスモデウスならば情報を引き出すことも可能なのだが、『色欲の誘惑』にかかった状態では意識がもうろうとしているため、詳細に質問しなければ期待する答えは返ってこない。
「やはり勇者は怪我をして出てこれないのか、それともこ奴に知らされていないだけか……、まあどちらでもよいわ。」
そこでアスモデウスは少し考えるそぶりを見せた。そしておもむろに『色欲の誘惑』で支配した人間たちに向かって命令を――
――バァーン!
今回の話、実は主人公視点です。
勇者、魔族、軍の兵士の間には三すくみの関係があります。
魔族は勇者に勝てません。直接戦えば必ず勇者が勝ちます。
人間の兵士は魔族を倒せません。軍として何万と言う数で押しても傷一つ付付けられません。
勇者は人間相手にはただの兵士と大差ありません。数で来られれば負けます。
勇者と軍が協力して戦うため、最終的に魔族に勝ってきましたが、サキュバスの操る人間の軍隊が出来上がると勇者一人ではどうにもなりません。




