帰って来ない
「あ、おかえ──相楽っ!?」
玄関の扉から雪崩れ込むようにして倒れた質量に、俺は目を疑った。
閉ざされた鶯色の目。口元には赤い色。──まさか、吐血した?
そんな、そんな、そんな。
気が動転していたが、それも一、二分で抑え、俺は携帯端末を取り出し、119にかける。
「すみません、同居人が倒れまして。はい、花屋を営んでいる汀というところです。はい、はい……」
落ち着け、俺。落ち着け。
相楽と幸せに暮らす夢が、まだ消えたわけじゃない。今、どんなに儚い灯火になっているのだとしても。
落ち着け。
相楽が俺の手以外にかかって死ぬのは嫌だ、なんて、戯れ言はよせ。不謹慎にも程がある……
俺は手首を引き裂いてしまいたいような目眩に抗いながら、救急車が来るのを待った。
自傷してはいけない。相楽が悲しむから。
救急車のサイレンが街に響く。それは花屋の前で止まり、救急隊員が待っていた俺の方に近づいてくる。
「倒れた方は?」
「こちらです」
本当なら運べればよかったのだが、上手く力が入らず、相楽は玄関に倒れ伏したままだ。
血を口元から拭き取ってあるせいで、相楽の妙に白い肌が際立ち、まるでもう死者の世界に行ったかのような表情に見える。
違う、違う、相楽は生きている。死んでなんかいない、死んだりなんかしない。俺を置いていかないで!
そんな感情を綯い交ぜにした状態で、俺は救急車に乗り込む。隊員が処置していく中、俺は相楽の右手を握っていた。……いやに冷たい。
相楽に一体何があった? 外傷があったわけでもない。何故相楽は急に倒れてしまったんだろう?
おかしいところはなかったか? と自分の記憶に問いかけた。
──おかしかったんだ。
今朝、相楽は俺の名前を呼んでくれなかった。いつもと違い、終始「君」って呼んでいたんだ。ぼーっとしていることはよくあるから気にしていなかったけれど、朝からぼんやりして、店を開ける準備をしなかったのも、変調の一つかもしれない。
俺は、気づいてあげられなかった。ただのうのうと、相楽との幸せな日々が続くなんて夢物語に思いを馳せて浮かれていただけ。
握る手の力を強める。返ってくる力はないけれど。
もし、おかしいと気づけたなら、俺は相楽を助けられたはずなのに。
殺そうとした人間を助ける? 片腹痛い。大層な人間サマになったな?
心の中の闇が嘯く。
五月蝿い五月蝿い五月蝿い。
同じ俺のくせに!
そっくりそのまま、お前に返してやるよ。
俺は絶望の淵に立たされながらも、相楽の手をぎゅ、と握りしめた。まるでそれで繋ぎ止めているかのように。
病院に着くと、相楽はすぐに様々な検査を施され、俺はただ待つしかできなかった。
怖い。
相楽が死ぬのが怖い。せっかく二人わかり合えたのに。幸せな時間がぼろぼろと古びた写真のように崩れ去っていくようで怖い。
しばらくして、俺はとある病室に案内される。
「相楽!」
そこのベッドの上には相楽が横たわっていた。心電図と酸素マスクをつけられて。顔色は相変わらず悪い。
医者が言う。
「手を尽くしましたが、もう……」
「……そんな」
こんな三文小説みたいな展開なんてあるか。
大切な人がこんなに簡単に死ぬなんて。
「息はまだありますし、心臓も動いていますが、いつまで保たせられるかわかりません。傍にいてあげてください」
せめてもの慈悲のように医者が言う。言われなくても、相楽の傍から離れるつもりなんてない。
そう、君が死ぬというのなら──
そんなとき、きゅ、と弱々しいが、握り返してくる手があった。
「こーき、くん」
「え……」
「幸葵くん」
はっきりと俺の名前を呼ぶ声がして、俺は顔を上げる。するとすぐにうっすらと開かれた鶯色と出会った。
「相楽……」
相楽はいつものように微笑んでいた。震える手を持ち上げ、俺の頭にぽん、と置いた。
少し息苦しそうにしながらも、相楽は続ける。
「泣かないで」
俺は今、泣いているのだろうか? そう思っていたら、相楽の指が軽く目元の雨滴を掬った。
泣いていたらしい。
けれど、これが悲しくなくて、何が悲しいというのか。
「相楽、相楽……」
名前を呼び続ける。呪文のように。まるでそうすれば、生き延びてくれるとでも言うように。
相楽は儚く微笑んだ。
「あい、してる……」
その言葉を最後に、相楽は目を閉じた。




