約束の日
朝日と共に、彼は目を覚ます。
とても健康的な朝だと思う。
けれど僕は咄嗟におはよう、ということができなかった。笑っているだけで精一杯だった。
夜のような黒い髪に星みたいな琥珀色の瞳。この人を僕は知っている。当たり前だろう。抱きしめて眠っていたのだから。
どうやら彼とは同居しているらしい。「おはようございます、相楽」と少し寝ぼけ眼の彼が返してくる。可愛い。
が、問題はそこではなかった。
彼の名前は、何だっけ?
思い出そうとすると頭が痛くなる。名前を呼ばずに「おはよう」と笑った。
僕は心の中で焦っていた。彼が誰なのか知っていた。僕のとても大事な人で、大好きな人で、一度ひどく大きな間違いをして──そんな大事になったのに、僕はこれっぽっちも彼の名前を思い出せない。
「相楽、どうしたんですか?」
「なんでもないよ」
名前を、呼べない。
「今日は仕事、どうするんですか?」
唐突に訊かれ、きょとんとする。
仕事、仕事、仕事……
僕は時計を見上げた。
8時30分を指している。
「あーっ」
そろそろ準備しなくては間に合わない。
「っていうか、君こそ仕事は!?」
彼は僕と同い年くらいだったはず。一端の社会人をやっているはずだ。すると、君ってなんですか、と苦笑しながら彼は答えた。
「今日は休みですよ」
「えっ、ずるい。じゃあ僕も休む!」
「可愛いですねぇ、相楽は」
可愛いと言われるのは男として微妙な気分だが、きっと褒め言葉だろう、と素直に受け取ることにした。
臨時休業したって、さして支障はない。残念なことに僕の稼ぎは雀の涙だ。
僕は休む、休むぞ、と決意し、臨時休業の貼り紙をしに行ったところ、彼は思いついたように言った。
「じゃあ、今日は約束していたあれをやろうか」
約束?
うん、とその場では明るく答えて何気なく部屋に戻る。焦って日記を漁った。
名前も覚えていない彼と、僕は一体どんな約束をしただろうか。ページをめくり、めくる。
すぐに見つけた。新しい記録。
「幸葵くんが手料理を作ってくれるって。楽しみ」
幸せの葵……これは彼の名前だろうか。読みから考えて、人っぽい名前だとすると……「こーき」だろうか。
そうか、彼はこーきくんっていうんだ。今日は手料理を作ってくれるんだ。
「楽しみ」
記憶の欠如はよそに、僕は純粋にそんな風に考えた。
居間に戻ると、こーきくんが台所で材料を確認していた。
「何作るの? こーきくん」
「んー、ピザですかね」
「えっ、ピザって家で作れるもんなの?」
「作れますよ」
材料を聞くと意外と単純だった。ただチーズやタバスコを今うちでは切らしている。
買い物に行くことになった。
「チーズなくてもピザはできるけど」
「や、チーズのあのみにょーんってなるのがいいでしょ。タバスコに合うし」
「……タバスコもなくていいと思います」
こーきくんが遠い目をする。え? 何か変なこと言ったかな。
「うちの父が、極度の辛党だということは話しましたかね」
「初耳かな」
「……一食でタバスコを一瓶使いきる人、と言ったら、どれだけ異様かわかるでしょう?」
うん、それは確かに異様だ。
「僕はそんなことしないよ。タバスコはあくまでアクセントだよ」
「ですよね、普通、そうですよね……」
なんだかこーきくんがこっちの世界に戻ってきそうにないので、とりあえず買うものを決め、いってくるね、と家を出た。
タバスコとチーズを忘れずに。
「ふんふふーん♪」
白状しよう。僕は今とても機嫌がいい。だって、帰ったらこーきくんの手料理が食べられるのだ。自分の手料理が下手なわけではないが、たまにはいいものだ。
楽しみで楽しみで仕方ない。
ちょっとくらい、浮かれてもいいよね、と思いながら、パーティー気分で買い物を進めていく。ピザの材料だけじゃなくて、何かつまめるものを買っていこう。スナック菓子とか。
そういえば、こーきくんってスナック菓子食べるイメージがあんまりないよな……ちょっと見てみたいな。ポテトチップスなんか食べたら、一般的なように夢中になって食べるのだろうか。それとも、見た目のイメージに違わず、スマートに食べるのだろうか。
色々想像していたら、楽しくなってきた。これは是非とも実物を見なくては、と僕はポテトチップスの袋を多めにかごに入れた。
相楽が帰ってくるのを待つ間、俺はピザの生地を練っていた。小麦粉とベーキングパウダーと楽をするのにヨーグルトを混ぜると、いい感じの生地になる。
生地が練り終わると馴染みをよくするために30分くらい寝かせる。
相楽は俺の手料理をどう評価するかな。一応自炊はしているし、父や母の味覚音痴ぶりを目にしながら育ったため、まともな味覚は持っているつもりだ。
というか、俺のような面倒な性格のやつが料理音痴というスキルまで持ち合わせていたら、もはや目眩しかしないだろう。俺はそこはまともなはずだ。
何より、相楽と食べるのが楽しみだ。相楽は美味しいと言ってくれるだろうか。笑ってくれるだろうか。そればかりが気になる。
さて、チーズを買いに行った相楽は今頃どうしているかな、と思いを馳せた。
そうやって浮かれて、俺はおかしさから目を逸らしていたんだ。
「2195円です」
会計で出された数字を約200年後か……なんて阿呆なことを考えていた。
阿呆なことは自分の中にだけ押し留め、僕は会計を済ませて袋に入れて歩く。やはり機嫌はいいままだ。
店を出るとふらふら歩く。別に挙動不審という意味じゃない。ただ単にふらふらとしていたかっただけだ。
街の様子は今日も平和だ。ただ、人通りはあまりないような気がする。
そんな、夏の日差しの中で、
不意に僕の視界が流転する。ぐにゃりと捻れたかのように。
僕は戸惑いながら、近くの電柱にすがった。ただの立ち眩みだろう。そう考えた。しばらくすれば治る、と。
けれど、治ることはなかった。それどころか悪化して、頭痛までしてきたところだ。
どうしよう、帰らなきゃいけないのに。
重い足をずり、と引きずり、一歩を踏み出す。
帰らなきゃ、こーきくんが待っている。
帰らなきゃ、帰らなきゃ。
僕は今度は冗談ではなく、ふらふらと足を踏み出した。
熱中症にでもなったのだろうか。自販機を探す。清涼飲料水を買って飲むが、症状はよくならない。
がんがんと頭痛がして、頭のどこかで警報が鳴って、僕はこれ以上歩いたら、死んでしまう、そんな警告が鳴り響いて。
けれど、そんな警告を無視して僕は進んだ。
待っている人がいるんだ。大切な人がいるんだ。約束があるんだ。
「こーき、く、」
潤したばかりの喉から枯れたような声が零れ、瞬時に何かが喉にひゅっと入り込み、僕は咳き込む。また電柱にすがって。
長らく僕を苦しめた咳は、僕に衝撃的な色をもたらして、止まった。
覆った掌についた赤。粘り気のあるそれは……
「ち、がう、大丈夫大丈夫、僕はまだ……そう、こーきくんと一緒に、ピザを食べるんだ。それから、ポテトチップス……」
譫言のようにそう呟いた僕。目線を上げれば、自宅の玄関はすぐそこだった。
相楽が遅いな、なんて思いながら、俺は時計を見上げた。10時過ぎ。買い物に行ったのは9時過ぎだ。一時間もかかるほど、スーパーが遠いわけではないし、難しい買い物でもないはずだ。小学生じゃあるまいし。
ああ、でも相楽のことだ。あの鶯色の目をきらきらさせて、陳列された商品に目移りしてなかなか会計に足が向かないということもあり得そうだ。目に浮かぶ。
そんな自分の空想に、ふ、と笑ってしまった。相楽と暮らす日々が幸せすぎて馬鹿になっているのかもしれない。それはそれでいいと思うが。
「幸葵の思うように生きなさい」
父さんが、相楽が入院しているときに俺にかけた言葉を思い出す。
自分の思うように──相楽は俺だけのもの、という歪んだ独占欲は相楽が受け入れてくれたことでだいぶ鎮まっていた。
だから、二人で幸せになれる。今度こそ間違わない。
そう、希望を抱いていたんだ。
相楽が帰ってくるまで。
目と鼻の先にあるはずの自宅が銀河でも隔てているかのように遠く感じられた。……銀河は言い過ぎか。
だとしても、僕が一歩一歩踏み出しているのに、なかなか玄関の扉には辿り着かない。じりじりと夏の日差しが僕を照らして、焦らしているようだ。
がくがくといちいち震える足が、鬱陶しい。さっきからずっと、止まってくれないかな、と睨んでいるが、僕の睨みに凄みがないからか、全然反応してくれない。
そんな生まれたての小鹿みたいな足で、ようやく庭を踏んで、玄関の扉が手の届く距離になる。ドアノブに手をかけたところで、僕は達成感に満たされた。
やった、帰ってきた。ただいま、こーきくん……
しかし、その言葉は声になることはなく、視界は再び流転する。
玄関に倒れたどさりという質量を他人事のように聞きながら、僕は意識を閉ざした。
瞬間に思ったことは、
──こーきくん、ごめん。




