忘れたくないのに忘れてしまうから
目が覚めると、僕は深夜だというのにベッドを抜け出して、幸葵くんの傍を離れる。僕を抱きしめて眠る幸葵くんの腕から脱出するのは難しかったが、なんとか成功した。
僕の体温を失った幸葵くんは布団に残った僕の体温を求めて布団を抱きしめている。可愛いなぁ、としばらくその様子を眺めてから、夜更かしはいけない、と本題に入る。
僕は、忘れっぽい性格だ。
17年前のあの事件を皮切りにひどくなったが、幸葵くんと再会してから、少しずつ昔の自分を 思い出してきた。僕は元々、忘れやすい気質なのだ。
だから、毎晩、日記を書いている。忘れたくないことを文字にして収めている。
けれど、書いたって忘れてしまえば、あまり意味はないのだ。実際、日記を読み返しても、一度忘れてしまったことは「へぇ、こんなことがあったんだ」と淡白にしか思えない。
それでも、忘れたくないのに。
僕はひどい人間だ、と思う。きっと、幸葵くんや、お店の常連さんなんかは違うというだろうけれど。
僕はひどい。どんなにかけがえのない出来事でも、忘れてしまえば他人事のようにしか扱えない薄情者なのだ。
もしかしたら、幸葵くんが僕の前からいなくなったなら、幸葵くんのことさえも忘れてしまうかもしれない。
そんな脆い記憶能力で、誰も傷つけないで生きていけるわけがない。
僕は机の上に取り出した日記帳を開き、ぺらりとページをめくる。
何度めくっても、やはり忘れてしまったからか、第三者のような目線からしか見ることができない。
そんなページをめくる中には汀さんの名前が多く出てきていた。汀さんは常連中の常連だ。僕が記憶能力に気づいて日記をつけ始めた──10年くらい前には、彼はもう常連さんだったのだ。
けれど、結局僕にとって常連さんに過ぎない彼は、どんなに顔馴染みでも、赤の他人に過ぎなかった。
ペンを執った僕は思う。虚しいな、と。
結局、ここに今日何を綴ったって明日忘れてしまえば無意味なのだ。……僕は、そんな人間だ。
くるりと手の中でペンを回す。特に意味のない動作だ。いつの間に、僕はペン回しなんか覚えたのか。疑問には思うが、興味は湧かない。
日記に書かれて忘れられた過去も、そんな感じだ。疑問に思っても、興味の対象にはならない。
……怖くて、手が震えた。
僕がこれから書こうとしているのは、今日幸葵くんと約束した今度の土曜日のことだ。幸葵くんが手料理を振る舞ってくれるという、僕の快気祝い。
けれど、土曜日までに忘れて、またどうでもよくなってしまったら? そう思うと怖くて……
忘れないように、と書き綴っても、忘れてしまう。そんな僕が、僕は、本当は嫌いで嫌いで仕方がない。
「でも、どうしようもないんだよね」
結局僕は、「土曜日、幸葵くんとの約束が楽しみ」だなんて書いてしまった。
やっぱり、忘れたくないから。
せっかく手に入れた二人の幸せ。平穏な日々。傷なんて、つけたくなかった。綺麗なままの日常を僕は望んだ。
「忘れたくないよ……」
ぽつりと夜の静寂に雨が弾ける。
机の上に零れたそれは月明かりに照らされて、青白く光っていた。
それから、幸葵くんの腕の中に戻る。日記は大切に引き出しにしまった。
誰にも見せることはないであろう僕の弱さをそこにしまってしまった。
幸葵くんの温もりと、温かい寝息に、僕はすぐに微睡む。
いるかどうかわからないけれど、神様に祈る。
明日の朝、僕が何も忘れていませんように。
そんな密やかな願いが聞き届けられるかわからないまま、僕はゆっくり瞼を下ろした。




