いつもの日常へ
長い長い、夢を見ていたような気がする。
その夢はまるで誰かの人生のようで、他人事のように思えたけれど、とても身近にも感じられて。
長さは計り知れない。ただ、「誰かの人生だった」という確信だけが胸の中に残って、景色はぼやけたまま、夢の記憶は曖昧なまま、僕は目を覚ます。
瞼を持ち上げると、柔らかい白色の天井が目に入った。次にはぴっぴっという規則正しい機械音が聞こえてきて、ぼんやりとそちらに向くと、心拍を表すメーターが定期的に揺れて見えた。ついでに、点滴が僕に繋がっていることもわかった。
しばらくぼんやりとしながら、そういえば、反対側はどうなっているんだろう、と首を動かす。
僕は目を見開いた。
「あ……」
琥珀色の眼差しと出会う。途端に愛しさが増して、涙が零れそうになった。
彼は零れる前に僕の涙を掬い取って、僕の名前を呼んでくれた。
「相楽……」
だから僕も返すんだ。笑顔で、彼の名前を。
「おはよう、幸葵くん」
「相楽、相楽、相楽」
相楽の鶯色の目が覗いた瞬間、俺は臆面もなく、相楽に抱きついた。心電図や点滴があって非常にやりづらかったが、それでも、この腕で体温を確かめずにはいられなかった。
「はは……幸葵くん、痩せた?」
「う……」
その指摘に俺は言葉に詰まる。
窶れた、とは色々な人に言われた。相楽が倒れて一週間──食事も碌に喉を通らず、ゼリー飲料などで誤魔化して生活していた。
けれど、それをそのまま言ったら、相楽は心配するだろうから、俺はそうかな、と笑って流した。
すると、相楽が点滴の刺さっていない右手で、むに、と俺の頬をつつく。上手く喋れないし、なんだかむず痒い。
「相楽、なにすゆんれすか」
「ははっ、幸葵くん可愛い」
「俺は男れすーっ!」
からからと笑う相楽。釣られて俺もつい笑ってしまう。
だが、ふと、気配が暗く、冷たくなる。暖色に見える鶯色が、一瞬、冷たく、凍る。
「嘘を吐かれるのは、やだな」
「……、相楽?」
相楽の、見たことのない瞳。氷よりも冷たいような、穏和な相楽にはとても似合わない瞳。
俺の知っている相楽は、こんな目はしないはずだ。そう思うと、怖くなった。
まるで、今目の前にいる「汀相楽」が偽物であるみたいに感じられて。
だが、それも一瞬で、笑顔に転じた相楽は、俺の頬から手を放し、腹部の辺りをえいえいと小突いてきた。
「ちゃんと食べてるのかー!」
「うっ」
「やっぱり、お腹も頬もこけてるー」
「そこまでじゃないですもん」
「少しは自覚があるんだね」
相楽に搦め手で制されてしまった。無念である。
同時に、見上げてくる相楽の真っ直ぐな眼差しが、先程の言葉と冷たさの意味を教えてくれた。
嘘を吐かれるのは、嫌だ。
辛いことも悲しいことも、楽しいときも嬉しいときも、二人で分け合おう、と。もう擦れ違うことがないように。
本当のことを言ってほしい、と相楽は言っているのだ。
相楽は唯一、俺の「本当」を受け止めてくれる相手だから。
けれど、やはり思う。
「そんなに痩せましたかね?」
「痩せてるよー、お腹のお肉つまめないもん」
「つまませたことないでしょうっ」
女子だったら完全に怒る言い回しだ。俺も若干怒っている。
生活習慣は──人並みには気をつけているつもりだ。バランスのいい食事、適度な運動、適度な脳内体操。
……まあ、この一週間、相楽がもう目覚めないのではないか、と気が気でなくて、生活習慣が乱れてしまったことは否定のしようがない。
「相楽が心配でした」
「……そっか。ごめんね」
謝らなくていい、と心の中で思う。俺が相楽の死を恐れるのは、「相楽が好きだから」以上に身勝手な理由だからだ。
ぎゅ、と拳を握りしめ、競り上がってくる思いをこらえる。
殺したい。
俺の異常性癖。好きになった人を殺したくなる衝動。
それはその人を自分だけのものにしたいという歪んだ独占欲から生まれる代物で、自分以外の原因でその人が死を迎えるのを恐れるものだというのが、今回わかった。
殺すなら、自分の手で。
ああ、あの細い首。俺が両手をかけたなら、簡単に折れてしまうのではないか?
今折ったなら、相楽は目を閉じる間もなく絶命して……ああ、ああ、光を失った鶯色の瞳……想像するだけでぞくぞくする。きっと、さぞや美しいのだろう。
見たい。
駄目だ。
歪んだ感情を拒絶するように俺は胸中で唱え、唇を噛む。大きな波のように迫り来る衝動を受け流すのは、重労働だ。相楽の手を強く握りしめてしまった。
相楽は痛いとも何とも言わず、点滴が刺さっていて不自由であろう左手で俺の髪を鋤くように撫でる。その手の感触が心地よくて、次第に落ち着きを取り戻していく。
落ち着いたところで、俺は情けないと思いながら、告白した。
「やっぱり俺は相楽がいないと駄目みたいだ」
すると、相楽は嬉しそうににっこり笑って、僕も、と嬉しい言葉をくれた。
そこから相楽は様子見ということで病院で一泊することになったが、特に異常は見られず、そのまま帰ることになった。
医師から話を聞いたところ、記憶喪失の相楽の中で何か記憶──トラウマに引っ掛かるような単語に触れたことによる精神錯乱が今回の意識混濁の原因だろう、ということだった。
直前に話していた父に色々聞いたところ、俺と接するときは気をつけた方がいい、と至極全うなことを言った結果、相楽が錯乱したのだという。自分の罪を自覚している分、ちょっと複雑な心境になるが、相楽がそこまで俺を信頼してくれているのだ、とちょっと嬉しくもなった。
相楽の退院の日。手続きと支払いを済ませ、相楽と二人、仲良く手を繋いで病院から出た。空は相楽の退院を祝うかのように快晴で、相楽と二人して鼻歌を歌い、相楽の店に帰った。
哀音くんに会ったことは内緒にしておいた。父の発言が相楽の記憶の琴線に触れたことは確かなようだが、相楽は特に俺のこと以外を思い出した、ということもなかったから。相変わらず、実の弟である哀音くんのことも「店の常連の汀さん」としか思っていないようだし。
相楽の心労を増やすこともあるまい、と口にしなかった。
というのは半分方便で、本当は怖かったのだ。
俺は相楽の弟である哀音くんの存在が非常に怖かった。並々ならぬ兄への想いは兄弟愛を軽く越えている。
──相楽はそんな哀音くんの心すら、思い出したら受け入れてしまうのではないか、と考えたのだ。
要約すると、俺は哀音くんに相楽を盗られたくなかったのだ。
相楽は、俺だけのもの。
歪んだ独占欲であることは自覚済みだ。だが、相楽がそんな俺を受け入れてくれた今、相楽を他者に渡すなんて、俺には考えられなかった。




