「ざまぁみろ」「ざまぁないな」
「へ……?」
おれが茫然自失としてしまったのは語るべくもない。
「あに、き……?」
「えと、君は誰? あと、ここは……病院かな。どうして僕、病院にいるんだろう?」
その穏やかな面差しや語り口は兄貴のものなのに、兄貴はおれを置いてきぼりで、全く知らない風に続ける。
「あっ、もしかして、君は僕のお見舞いに来てくれたの? ありがとう」
その笑顔は兄貴そのものなのに。
笑顔を向けているのは弟に対してではなく「お見舞いに来てくれた人」に対してで。
「そんな、兄貴、嘘だろっ、覚えてない、なんて、う、そ……そう、嘘、嘘だ嘘だ嘘だ!!」
おれの喚く声に看護師が駆けつけ、困惑する兄貴からおれを引き離した。おれは足掻いたけれど、兄貴に触れることもできず、病室を追い出された。
記憶喪失。
当然、そんな状態の兄貴を学校に復帰させるのは難しかった。
精神的ショックによるものでしょうというその診断はごくありふれた漫画や小説のような一場面で、おれはしばらく、現実を受け入れられなかった。
もしかしたら、夢なんじゃないか? 夜が明けたら、兄貴は昨日のは冗談だよ、なんて笑って出迎えてくれるんじゃないか、なんて、楽観的に考えていた。
けれど、そんな楽観を現実はおれに許してくれなかった。
「いつも来てくれてありがとねー」
身内以外、許可なく入ることが許されなくなった病室。身内でさえ、医師の許可がないと入れない。
身内ならば、穏やかに緩やかに記憶の回復ができるのではないか……という楽観がそこにあった。
けれど、父も母も、忙しさにかまけて訪れることはあまりなかった。穏やかなままならいいが、あの錯乱状態の息子を見ることが怖くて仕方がないのだ。
おれも、言い出せなかった。自力で思い出してほしかったから。おれが誰かって。
「花瓶、替えてきます」
花瓶の水を替えに、一階まで降りた。本当なら、兄貴の入院する階でもできるけれど、記憶のない兄貴の近くに居続けるのは、胸が痛くて仕方なかった。
そんなおれの逃げ場が一階だった。
「よ、かなくん」
そこで久しぶりに春さんと夏帆に会った。花束を携えたもう一人をおれは知らない。
「もしかして、兄貴の見舞いに?」
「ん。まあでも、入口で訳は聞いたから、これだけ、な」
春さんは花束を示す。
そういえば、この人たちは兄貴が記憶喪失したことは知らないのだったか。……でも、兄貴はやはり花が好きなのだろう。おれが花瓶に違う花を活けるたび、喜ぶから。
根っこの部分は変わっていないんだ。
だから、別に、この人たちに無理に知らせる必要はない、とおれは判断した。
見たことのない女子から花束を受け取り、兄貴も喜びます、と告げた。
後ろから、ひょっこりと兄貴の後輩──西園といったか──が姿を現す。春さんの影になっていて気づかなかった。
「あと、相楽先輩に、これを」
それは寄せ書きの色紙だった。早くよくなるといいな、とか、花たちが待ってる、とか、……きっとこの人たちなりに気遣ったメッセージなのだろう。
おれはけれど、それを冷たく見下ろす。それはもう兄貴には届かない言葉だから。
友人どころか、家族であるおれのことすら忘れてしまっている兄貴に、この色紙を渡すかは……悩んだが、受け取っておいた。
兄貴に更なる異変があったなんて心を痛めるのは、おれ一人で充分だ。兄貴の友人だったこの人たちにはせめて幸せに穏やかに凡庸な日々を送ってほしかった。
「にしても春子、花束はがさばるって言ったじゃんー、かなくんが運ぶの大変そうだよー」
「病院に植木持ち込む馬鹿があるか」
どうやら、春さんと夏帆はいつも通りらしい。西園があわあわするのも通常運営で、なんだかおれは泣きそうになった。
名前も知らないもう一人が、ここでようやく口を開く。
「そういえば、白崎くんが転校したって話、汀くんは知ってるの?」
辺りの空気が凍るのを感じた。凍らせているのは自分だという自覚もあった。
おれに対して白崎の名前が禁句であることをその女子は知らなかったらしい。
「ほらゆき、さがらんと白崎は同じクラスだし、さがらん、一時期保健室だけど登校してたらしいから知ってるんじゃない?」
夏帆が呑気に言う。常ならば忌々しいばかりの夏帆の空気の読めなさがここに来て役に立った。変な空気になりかけたのを、夏帆の一言がからからと駆け巡って解消していく。
ぎこちないながらも春さんが頷いたことで、ゆきと呼ばれたその女は納得したようだった。
なんとなく、居づらくなったのだろう。西園がどうせ会えないんですし、渡すものは渡したのでお暇しましょう、と切り出す。そうだな、と春さんが頷いて、一行は帰る雰囲気になった。
そんな中ゆきというやつの唇が音もなく動いたのが忘れられない。
ざまぁみろ。
ゆきの唇は確かにそう動いていて、ぞくりとしたものが背中を駆け抜けた。
こいつは、こいつは違う。兄貴の友達なんかじゃない。春さんや夏帆曰く、彼女らの友人であるそうだが、兄貴とは単にクラスメイトだっただけで、春さんたちにくっついてきたのだという。
ざまぁみろ。そう象った唇は白い肌の上で淡く色づいていて、艶かしく、一種不気味でもあった。
兄貴をいじめていた主犯がそいつだと知ったのは、後々の話だ。
おれはゆきの唇が象った言葉から逃げるように、花瓶や花束、色紙を携えて、兄貴の病室へ向かった。
花束を見た兄貴は喜んでいた。顔も覚えていないであろう友人に、今度会ったらありがとうと伝えてね、と言われた。
色紙は──見せられなかった。兄貴は、困惑するだろうから。それに春さん、夏帆、西園の三人のメッセージは善意だろうが、ゆきの言葉は偽りにしか映らなかったから。
その棘が兄貴に刺さるのを恐れた。
兄貴は結局、卒業式のその日まで、高校のことや友人のことを思い出すことはなかった。もちろん、おれのことも。
おれの高校受験のことはよく覚えていない。けれど、特に忙しくなったとか、そういうわけではなかったはずだから、恙無く進んだのだろう。おれもいつの間にか、卒業式の準備に追われていた。
ただ、兄貴の高校の卒業式は、休みをもらった。父は仕事で、母はパート。その生活スタイルを崩すことはなかった。というか、兄貴の代理出席、ということで、年の近いおれの方がいいだろう、というよくわからない結論で決まったのが、我が家の家族会議でのことだった。
結局、代理出席といっても、保護者席に座って式典を眺めるだけだ。一週間後にはおれは卒業生の席に座っているであろうから、これも新鮮といえば、新鮮な経験か。
「汀相楽」
担任が呼ぶ声に答える者はなかったが、式典は恙無く進んだ。
卒業式が終わって、卒業生が花道を通って下校、という流れ。
与太話に花を咲かせる者もあれば、未練などすっぱりないようにあっさり下校していく者もいる。
そんな中、おれは兄貴の卒業証書を受け取るために、例の四人と自転車置き場で話をすることになっていた。夏帆が妙に浮かれる傍ら、春さんと西園が神妙な面持ちをしていたのが印象的だった。春さんと夏帆がいるからか、ゆきも一緒ということにぞわぞわと肌が粟立つのが抑えられなかった。
「ほい、これ、相楽のな」
「はい、ありがとうございます」
春さんから卒業証書を受け取る。これを持つべきは兄なのに、と項垂れていると、脇からゆきが手にしていた花束を一つ、ずい、と差し出してきた。顔の悪くないおしとやかそうなゆきは人気があるらしく、花束をいくつも抱えていて、花に埋もれていたが、おれにはちっとも綺麗に見えなかった。
「にしても相楽、残念だったな」
悼むような声を出したのは春さんだった。兄は死んではいないが。
まあ、白崎に殺されかけたのだ。死にかけになったのは確かだろう。
「まあ、白崎とは仲良かったしな。仕方ないっちゃ仕方ないか」
春さんは物事をよく見ている。だからおそらく、白崎が兄貴に向けていた好意が異質なものであることも察していたはずだ。だが、夏帆という阿呆がいるからか、見事にオブラートに包んでいた。
夏帆がからからと笑う。
「だねー。確かにあの神童サマが唯一認めた? みたいな空気あったもんねー……さがらんショックだったろうな」
珍しくしんみりとしたことを言う夏帆。明日は槍でも降るのかと一瞬身構えた。
「元気になったら、またお会いしたいと伝えてください」
西園が無難な一言でまとめ、解散になるか、と思われたところで、黙っていたゆきがいきなりおれの前に立ち、ずい、と花束全部を差し出してきた。
何事か、と思っていると、ゆきは信じられない一言を発した。
「好きです」
「……は?」
おれの口から冷たい言葉が零れたのは、仕方のないことだと思う。
他の連中が口々に兄貴への労りを言葉にする中、今、こいつは何と言った?
好きです?
「ふざけないでくれますか」
まだ冬の冷たさが残る風が吹き抜ける。けれど、おれの煮えたぎった心を冷やすことはない。
怒りに煮えたぎった心を。
止めどなく、言葉が溢れ出す。
「こっちは病人の兄貴抱えて大変だって話してんのに、あんただけ惚れた腫れたの春到来? ふざけないでください。状況くらい考えて物言える年ですよね? 何なんですか? それで、おれがあんたと付き合ってメリットは? 兄貴のことを置いてきぼりに、おれが幸せになれるとでも? 脳内お花畑野郎ですね」
そう一息に告げて、花束を全部突っ返す。それが答えだと言わんばかりに。
すると、ゆきは少し呆然とした後、おれが今最も聞きたくない現実を口にした。
「あなたって、似てるんですね。白崎くんと」
全身の血が瞬時に沸騰して、瞬時に凍える。そんな心地がした。
おれは人目も憚らず、叫んだ。
「おれをあんなやつと一緒にするんじゃねぇっ!!」
怒りと悔しさで頭が真っ白になって、その後、どうなったかは覚えていない。
おれと白崎は似ている。同じ人を好きになって、似たような独占欲を持っている。興味のないものにはとことん冷たい。
人聞きに聞いていたその情報。あまりにも共通点が多すぎて、おれは頭を抱えた。
その日からおれはめっきり、兄貴の病室に行くのをやめた。
おれは白崎のようになりたくなかったから──逃げたのだ。
すると兄貴は記憶喪失のまま退院し、当初の予定通り、伯父の花屋で働くことになった。
おれは未練たらたらで、高校を卒業してから、その近くにある叔母のクリーニング屋でバイトを始め、日に一回、兄貴の花屋に顔を出すようになった。
けれど兄貴は一向におれを思い出すことはなく、毎日「いらっしゃいませ」で「はじめまして」だ。
おれは惨めで仕方なかった。




