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青い景色に空いた穴  作者: 香久山ルイ
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裏切られた

 その一言が、しんとした病室の中に落ちる。

 あはは、言ってしまった、と僕は思った。頭のネジが少し緩んでしまった。知らず知らずのうちに自分に課していた「人に優しく」という座右の銘を冒してしまった。


「は、はは……」


 僕は力なく笑い──それから、かたーん、と手近にあった点滴台を倒す。針がぶつりと抜けて、血が滲んでくる。けれど、痛みはない。腕に痛みは。

 痛い、痛い、痛いのは胸。心臓が掻きむしられたがっているみたいに痛くてたまらなくて、掻きむしるのに邪魔な体に繋がれた管をぶちぶちと乱雑に抜いていった。


「あはははは、あはは、あははははははははははははははっ!」


 僕は狂ったように笑って、掻きむしれない代わりのように暴れた。哀音が必死で止めてくる。


「やめて、やめてくれ、おれが悪かった、ごめんなさい、ごめんなさい、相楽兄さん……!」


 久しぶりに兄さんと呼ばれて、ふと止まる。僕の腕を掴んだ彼の腕には袖から覗く包帯。

 ほら、やっぱり嘘だった。


「ひどいよ……」


 ひどく弱々しい声が僕の喉から零れた。

 目は哀音の腕の包帯に釘付けになっていた。哀音が視線を追ってはっとするが、もう遅い。


「やっぱり、嘘だったんじゃないか」

「あっ……」


 がしっ、と逆に掴み返す。わざと、傷に触れるように。哀音は呻いて、ぶるりと震えた。


「ちが、う、違うんだ、兄さんこれは……」


 哀音の言葉が尻すぼみになっていく。一つ嘘を吐いた手前、重ねる嘘を躊躇っている様子だった。

 僕は掴んだ手に力を込める。握り潰さんばかりに。

 ──もしかしたら、幸葵くんはあのとき、こんな気分だったのかな。

 好意を歪めて……


「もう、いい」


 諦めて。


「もういい、もういいんだよ。僕が一体君に何をしたっていうんだ? 僕の行動に何一つ嘘はないっていうのに、嘘嘘嘘、嘘ばっかり、みんな僕に押し付けて、楽しい? 歪んだカンジョウだね?」


 哀音の腕を振り払った。


「僕はもうここにはいられない。ここにいたくない。僕は君に嘘を吐いたことなんてないよね? ないだろう? どうして僕ばっかりこんな風に傷つけられなきゃならないの? どうして僕ばっかり嘘一つくらいで痛くならなきゃならないの?

それならもう何もいらないいらないいらない! 僕は、僕は捨てるから! 君たちが僕の心をぞんざいに扱った通り、僕も僕をぞんざいに扱って壊れてやる!!」

「にいさ、そういう意味じゃ……」


 叫んで病室を飛び出した僕に哀音が追いかけてくる。僕は出しうる限りの声で喚いた。


「来るなぁっ!」


 ぴたりと哀音の足音が止む。


「来るな来るな来るな、僕を傷つけるやつなんていらない。傷つけることでしか愛を表せない人なんて嫌い、来るな来ないで来ないでくれ……! 僕を一人にして……」


 そう残し、駆け出す。追ってくる者はなく、階段をばたばた降りると、中庭に出て、久しぶりのような外の空気を吸い──ぱたりとそこで倒れた。


 腕が痛む。兄貴に掴まれた腕が。おれの吐いた嘘が、おれを苛むように痛む。

 兄貴は嘘を望まなかった。優しくても嘘は嘘。そう言った。きっと、あの出来事があってから、兄貴の歯車は狂ったのだと思う。心を許した相手に殺されかけて、何もかもが信じられなくなっているのだと思う。

 それに気づけなかったのは、おれの罪だ、とまだ痛む傷を押さえて思った。




 同時に、気づく。




 兄貴の中で、どれだけあいつ──白崎幸葵の存在が大きかったか。

 なかったことにはできない。

 そんな言葉がよぎる。

 なかったことにはできないのだ。白崎幸葵の行為も、兄貴の好意も、おれの行為も。

 何もかもがなかったことにするには手遅れで、医者なんかじゃ、どうにもできない、処置なしのレベルで兄貴を苛んでいく。


「検温で……相楽さんは?」


 おれはそんな看護師の指摘でやっと、兄貴を追うことができた。

 兄貴に逆らうことができないのも、おれの業だろう。見つけた兄貴は病院の中庭で倒れていた。


 強い鎮静剤を打ちました。精神安定剤の投与も始めましょう。


 兄貴の主治医となった医者の声が遠く聞こえる。おれの頭を占めるのは、兄貴の「優しくても嘘は嘘」という一言ばかりだ。

 ただでさえ不安定な兄貴に、止めを刺したのは、おれだ。

 後悔に苛まれ、俯く。無意識にぎりぎりと音が立つほどに握りしめた手。


「──と、哀音」


 名前を呼ばれ、はっと気づく。一緒に話を聞いていた母が、心配そうにおれを見ていた。


「お医者さんのお話、終わったわよ。相楽に……会いに行きましょう」

「でも」

「今は眠っているわ」


 そういう問題じゃない。

 ずきりと腕が痛んだ。


「ごめん、腕が痛いから」

「あ……傷が開いたのかしら? 哀音も病院に行かなくちゃね」


 話題を逸らされた母はすぐにあたふたとどこの病院がいいかしら、などと言い始める。




 違うだろ。

 それでも会いに行こうって、言うべきだろう。


 その言葉がなきゃ、おれは今、

 兄貴に合わせる顔なんてないんだから……

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