優しい嘘
目が覚めると、また白い天井。けれどなんとなく前の部屋とは違う。きっと病院が移ったのだろう。たぶん──精神病院とか。
仕方のないことだと思う。誰彼構わず触れられるのを拒んで、振り払って、暴れ回ったのは記憶に新しい。
何か薬が打たれているのか、僕の思考は妙に落ち着いていた。目が冴えるというほどではないけれど、ぼんやりながら己の暴挙を事実として受け止められるようになっていた。
また管が増えているな、と思いながら起き上がると、定例のように、傍らには哀音の姿が。ただ、疲れているのか、こっくりこっくり寝こけており、目の下に色濃い隈が目立つ。色男なんだから勿体ない、といつもの兄らしい発想になる。
何回くらい哀音の首が傾いだだろうか。そう時間はなかったと思う。まるで僕が目覚めたのをわかっているかのように、哀音はぱちりと目を開けたのだから。
僕は微笑んだ。
「おはよう、哀音」
「……兄ちゃん……」
寝ぼけ眼の哀音は随分と懐かしい呼び方をしてくれた。兄ちゃん、とは可愛い。まだひねくれる前の呼び方だ。
少し懐かしく思いながら眺めていると、哀音がふと固まった。どうしたのだろう、と視線を巡らすと、僕の手に向かって伸びていた片腕をもう片方の腕が止めていた。──利口な弟だ。以前僕が暴れたことから学んだらしく、触れずに手を引っ込める。
少し、違和感を覚えた。今は晩夏といえど、まだ暑さの余韻はある。それなのに哀音はきっちりと長袖を着ている。窓から射す光から推測するに、天候不順はないだろうが……
「哀音……」
「あ、兄貴さ、頭痛いとかない? 使われた鎮静剤が相当強いやつだったみたいで、医者が後遺症を気にしてたんだけど」
遮るように放たれた問いに僕は少し首を傾げてから、横に振った。哀音は安心したようで、胸を撫で下ろす。
ふと気になったので、聞いてみる。
「そういえば、この間のとき、怪我した人とかいなかった?」
自覚は薄いが、随分暴れたように思う。過去の幻影に振り回されながらだったから、誰にどう当たってしまったか、とんと見当がつかなかった。怪我人が出たなら謝らないと、と素直に思ったのだ。
いつもの精神で。
だが、それは不意討ちでぐらつかせられる。
「兄貴は優しいね。誰も怪我した人はいなかったよ」
……哀音のその一言が、どれだけ胸に刺さったことか。
哀音はある癖がある。小学校のときだったか、それに気づいたのは。
なんだかずたぼろで帰ってきた哀音に心配して声をかけると、哀音はにっこり笑って「兄ちゃんは優しいね」と告げた。
「大丈夫。ただ転んだだけだから」
その怪我は本当は、いじめられてついたものだったと数日後に判明した。
つまり、哀音が僕を優しいと称するときは前振りなのだ。
嘘を吐く前の。
「ねぇ、その長袖、暑くないの?」
兄貴の唐突な問いかけにおれは思わず心臓を鷲掴みにされたように固まって……それからなるべく自然な笑顔で答えた。
「病院と外とじゃ気温差がひどくてさ。中は半袖なんだけど、病院はちょっと寒くて、だから学ラン着てんの」
……上手く、誤魔化せただろうか。
本当は、この下には傷痕が隠されている。
あの日、兄貴を止めるために、やむなく取り押さえることになって、その捕まえる役をおれが買って出た。そのために……腕に切り傷やら擦り傷やらができてしまった。
でもそれを見せたらきっと兄貴は傷つくだろうと思って隠していた。兄貴を傷つけないためなら、こんな傷なんて、どうってことなかった。
おれは、理解していなかった。
兄貴がどれだけ今回のことに傷ついているか。白崎に裏切られた辛さを微塵もわかっちゃいなかった。
蒼白な顔から表情を一気に落とした兄貴は、こう告げたんだ。
「哀音、どんなに優しい嘘でも、
嘘は、嘘だよ?」




