番犬様への言い訳
着替え終わってきてみると、なんだか秋弥くんと春子さんは沈んだ雰囲気だった。夏帆さんに関しては言わずものがな。
二人は僕のどじを未だに気にしているのだろうか。とりあえず声をかけてみる。
「なんかごめんね?」
言うと、春子さんが弾かれたように顔を上げ、首をぶんぶんと横に振る。
「むしろこっちこそすまなかったな。まさかこうなるとは想定していなくて……委員でもないのにほとんどの仕事をやらせてしまった」
別に気にすることはないのに、春子さんの表情は後悔を孕んでいた。「代わりにあたしが入っていれば……」と言い出す始末。
いやいや、あの場合女子に行かせるのは危険だっただろう。後悔はしていない。
「とりあえず、池は綺麗になったんだし、それでいいでしょ?」
当初の目的は達せられたのだから、それでよしとしよう。
「相楽、前向きだねー」
夏帆さんがからからと笑うのに、僕はまあね、と適当に返した。
僕の着衣が春子さんのものになったことも気になりはしたが、慣れてしまえばなんともない。
「ちゃんと洗って返すからね」というと、春子さんはぎこちなく頷いた。
ただ一つ、問題があるとすれば。
春子さんから借りたのが半袖にハーフパンツの運動着。びしょ濡れから着替えた僕には少し肌寒かった。
無意識のうちに肩を抱いていたらしく、それに気づいた秋弥くんが、何かをふぁさりと肩にかけてくれた。見ると、それは男子用の制服のジャケットだった。
「ありがとう」
「いえ。ぼくも原因の一因ですし」
少し小さなジャケットを引き寄せながら、微笑みを返す。優しい子だなぁ、と思った。
そんなこんなで色々あった終業式の日も終わり、各々下校することになった。
僕は春子さんの服のフローラルな匂いと秋弥くんの爽やかな匂いに包まれて不思議な気持ちになりながら、帰路に着く。
最後の最後まで申し訳なさそうにしていた二名と関係ないとばかりに空気を読まない一名に、別れ際、庭の向日葵が咲いたことを報告して、夏休み中に見に来てほしい旨を伝えた。
「汀先輩、向日葵咲かせたんですか? すごいです!」
「向日葵か夏らしいな」
「向日葵ってあれだよな。種がハムスターの餌になるやつ」
「随分昔のアニメ拾ってきたな」
反応はそれぞれだったが、見に来てくれるそうだ。嬉しい。
さぁて、帰路に着いた僕は、まだ高い太陽に照らされながら、思案した。
今、他人の運動着を着ているわけなのだが。
我が家の番犬もとい弟に、なんて言い訳をしたものか。
「……ただいまー……」
小声で家の中に入る。
玄関には一足の運動靴。今日は早く帰ってきたため、母はまだパートでいないし、父は仕事だ。
この時間に家にいるとすれば、汀家には一人しかいない。
それに、大体同じ地域の学校は大体同じ時期に夏休みやら冬休みやらが始まるものだ。
つまり、その運動靴が示すものは僕の弟、哀音の帰宅である。
弟は帰宅部なため、いてもおかしくはない。
ただ、気まずい。この姿で会うのは。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、奥から足音が近づいてきた。
「おかえり、あに……き……?」
予想通り、運動着姿の僕に哀音は目を見開く。見つかりたくなかったから小声でただいまと言ったのに、弟は見事聞き取ったらしい。
この気まずさから抜けるためには、あれを使うしかあるまい。
「やあ、今日もいい天気だね」
そそくさと立ち去る。
が、むんず、と襟を掴まえられた。
「兄貴、説明、な?」
哀音の目が据わっている。
何事もなかったように振る舞うには、明らかに自分の姿は変わっていた。普通なら制服で帰ってくるはずのところが運動着なんて、訳ありにしか見えないだろう。
そして何故か我が弟は僕の運動着の管理状況を知っている。何故かはこちらが聞きたい。
つまり。
運動着姿で何かあったことはバレバレで、しかもこの運動着が他人のものだということまで知られているのだ。うちの弟はよく言えば有能だが、やはり警察犬だろうか。怖いよ。
説明するよりも先に、運動着と、借りた制服のジャケットをすんかすんかと嗅ぐ哀音。やはり犬か。
「ジャケットはこないだのミントの奴。運動着はフローラルな柔軟剤ってとこ? ……まさか、女?」
「哀音って前世絶対シベリアンハスキーだよね」
「前世の話はいいから何があったか説明してよ兄貴。時間はあるだろう?」
そう、時間はある。夏休みは始まったばかりなのだ。
こんなに時間が無情だと思ったのは初めてかもしれない。
我が家のシベリアンハスキーに事のあらましを話した。何も疚しいことはない。敢えて挙げるとするなら、やはり女子の着衣を借りてきたことだろう。
あの池で起こったことは紛れもなく事故だし、誰にも罪はない。故に疚しいことには当たらないのだ。
しかし、弟はなんだか納得していなさそうな顔で僕を見つめた。それでも体を気遣ってホットミルクを淹れてくれる辺り、優しい。
「にしても春子に夏帆に秋弥って最近よく兄貴が話題に挙げる名前だよな。そんなに仲いいんだったらなんで緑化委員に入んないの?」
「哀音、緑化委員の倍率の高さは目を見張るものなのだよ。そして、委員に決まったら一年は変わらない」
「ふぅん」
リビングで向かい合わせで座りながら、哀音は煎茶を啜っている。渋い好みだ。
「誰かが突き落としたとかそんなんじゃないんだな?」
「そんなことするわけないよ。みんないい人だもん」
突き落とすとは物騒な。
僕はそんな陰湿ないじめを受けたことは……
「兄貴、兄貴が気づいていないだけで、兄貴に疚しいことしてるやつはたくさんいたんだからな」
「えっ……えっ」
そういえば、小学生のとき、目の色でからかってきた人と仲良くなって、ベランダで手押し相撲をして落ちそうになったこととかあったっけ。
あれは遊びの延長での事故で、ちょうどよく哀音が助けに来てくれたので助かったのだが。
──あのとき、哀音は上級生を怯えさせるほど憤怒して、威嚇していたような……
あれは事故であっていじめではないと思うのだが……
「それは兄貴がいじめと思ってないだけ。悪意のあるやつなんか、山のようにいるんだからな」
「はあ……」
あれも悪意だったのだろうか。
しかし腑に落ちない。
「普通に遊んでいただけなんだけど」
「だから、兄貴は甘いんだって」
哀音は呆れたように溜め息を吐き出し、煎茶を一気に飲み干す。
「今回の件だって、事故じゃなかったら、おれは……」
「は?」
哀音が口をつぐみ、それから吐き捨てるように言う。
「そいつら殺してたかもしれない」
「ころ……んな大袈裟な」
けれど、笑い飛ばせるほど、哀音の表情に冗談の色はなかった。欠片ほども見当たらない。真剣な表情。
どうしてそこまで一所懸命になるのか。
「物の例えだよ例え」
「物騒な例えもあったもんだ」
今は笑って流すけれど、哀音の真剣さに僕はたじろいでいた。
思ってみれば、小学生時代──哀音とまだ学校が同じだった頃、危機的状況になったときにいつも助けに来てくれたのは哀音だったじゃないか。その危機的状況は数えられないほどあった。
僕は、いじめられていたんだろうか。
僕は一般的な倫理観はあると思う。
白いミルクの湖面に映る自分の顔を見ながら確認する。
一般的な倫理観に基づき、いじめだと思われる行為は止めてきた。勘違いだったときもあったけれど。
ただ、その価値観を自分に当てはめることは、あまりしなかったように思う。「いじめはいじめと思わなければいじめではない」というのが世間一般の倫理だ。僕がいじめと思っていないのだから、僕はいじめられていなかった、と言ってもいいはずだ。
けれど、他人の価値観からしたら、違うのかもしれない。例えば、哀音から見た僕は、いじめをいじめと思っていない、危機感のない危なっかしい人物に見えるのかもしれない。
だとしたら、哀音のちょっと過保護なところも納得がいく。
「大丈夫だと、思うんだけどなぁ」
「油断大敵って言うだろ」
「それもそうだね」
油断しているつもりなんてないのだが、と思いながら、僕は冷めてきたミルクを飲み干した。
「でも春子さんたちは本当にいい人だよー。花を好きな人に悪い人はいないね」
「兄貴のその考え方は好きだけどさ……」
はあ、と哀音が疲れたように溜め息を吐く。湯呑みとマグカップを片付けるようだった。
哀音が警戒しているようなのは、きっと彼らと直接会っていないからだろう。
提案がてら、告げる。
「そういえば、向日葵が咲いたって言ったらみんな興味持ってくれて、見に来たいっていうんだけどさ、哀音も会ってみない?」
「へ、えっ!?」
哀音は大層驚いたようで、流しに何か重いものが落ちる音がした。怪我はないだろうか。
「会えばいい人だってわかるだろうし」
「まじで、兄貴、人をうちに招くのって初めてじゃね? びっくりしたー……」
興味はあるようだ。小さな声で、「会ってみたい」と返ってきた。
それなら即刻予定を決めなきゃね。メールを打ち込んで送信、と。
「ちょっと待ってメアドももう交換してんの?」
何かいけないことだっただろうか。
「せっかく友達できたんだし、メアドくらい交換しないと」
「兄貴の順応力はまじで尊敬する……」
褒められているはずなのだが、引かれている気もする。気のせいか。
首を傾げているうちに、早くも春子さんから返信が来た。
「いつでもOKだけど、夏帆の阿呆のために勉強会にしないか。あいつほっとくと夏休み最終日に全部の宿題やるタイプ」
いるよね。必ずそういう人。夏帆さんは本当に印象に違わない。
「勉強会かぁ。哀音もやる?」
「そいつらと? おれ、中坊だけど」
「人柄を知るにはいい機会だよ」
「……兄貴が言うなら、やる」
僕に従順な辺りがやはり可愛い弟である。
「弟も交えてになるけどいいかな?」
とメールを送ると、
「相楽の弟……? 興味はある」
「相楽弟いたの!?やべぇ見たい!!」
「是非お会いしたいです!!」
みんな好意的だった。
一連のやりとりを終え、僕は再び外に出ようと汚れた制服の入った三角袋を手にする。
何にせよ、クリーニングには出すつもりだったけど、まさかこうなるとは……
そんなことを考えていると、哀音が訝しげな目を向けてきた。
「兄貴、出かけんの?」
「ほら、一駅向こうくらいに叔母さんのクリーニング屋さんがあるじゃない。制服を出しに行こうかなぁって」
「……その格好で?」
哀音の指摘にはたと止まり、己の姿を顧みる。
学校から帰ってきて、まだ着替えておらず、運動着(女子規格)のまま。
物事って一旦冷静に考えるの、大事だね。
僕は顔面炎上させながら、そそくさと自室へ向かい、着替え始めた。
「全く、兄貴は無防備すぎるんだよな……」
部屋に戻った兄を見送り、一人ぼやく。
兄貴は隙がありすぎる。そこを誰かに狙われやしないか、と不安で仕方がない。
おれは重い溜め息を吐き出し、煎茶を啜った。




