4-10 花の名前
夏である。札幌にようやく訪れた夏だった。
人工龍脈を正常化し、どうにか通常通りの季節を取り戻したこの街であったが、いままで寒かったせいか暑さを尋常でもなく感じる。
それでもようやく寒いシーズンが終わったことに、誰もが安心していたのは事実だった。
「プール……かあ」
夏休みが始まってすぐ。青々とした空の下に、人は集まっていた。ようやく暑くなってきて、人々は夏のレジャーを楽しもうと躍起になっている。
見渡す限り、家族づれやカップルが溢れている。札幌という国内有数の都市に住む人が押し寄せているのだから、当然の光景かもしれないが、それでもあまりの人の多さに辟易する。
「これでも少ないほうだぜ」
と言ったのは、足踏み式の空気入れで大きいサイズの浮き輪を膨らませている近石だった。毎年家族でプールに来ているらしい彼は、さすがの手際のよさで、場所取りから浮き輪の用意まですぐに済ませている。
俺もまた、一人用の小さな浮き輪に息を吹き込んで膨らませている最中だった。摘んで空気が抜けないようにし、それに答える。
「マジか。お盆はもっとすごい?」
「家族連れが増えるからなあ。下手したら足場がない。泳ぐというより、浮いてるだけみたいになる」
「それは困る。泳ぎたい」
「けっこうテンション上げてるな?」
にやり、と笑う近石に頷いて応える。そりゃあ夏ですから、テンションは上がりますとも。少なくとも寒いよりずっといい。
女性陣の着替えは遅い。まあ、脱いで履くだけの男子と比べてしまえば、準備に時間がかかるというのは道理というものだ。
近石は迷彩柄のサーフパンツ、俺はハイビスカスのサーフパンツにノースリーブのラッシュガードという装いだった。
「お、二人とも、ありがとね〜!」
と言って声をかけてきたのは、柊さんだった。手を振っている姿が眩しい。
彼女の出で立ちは紺のビキニにホットパンツ、白のパーカーであった。快活な印象のある柊さんにぴったりだ。
「あれ、ひとり?」
近石が尋ねると、はは、と困ったように笑う。
「いやあ、よっしーの知り合いは美人多いね。なんというか、浮世離れしてるっていうの? 一緒にいると、ちょっと自信なくすなあ」
少し驚いてしまった。珍しく弱音を吐いている。彼女のこういう言葉を聞くのは二度目だった。
確かに今日集まったメンツは、俺が声をかけられる範囲にしていた。だから必然としてPIROのメンバーになったわけだ。
鶴喰はアイヌの伝説における女神の子孫であるし、響子さんも人とは違う気配の持ち主で、菜々実にいたっては天使である。浮世離れというか、人間離れと言った方が正しい。
かと言って柊さんが劣るというわけではない。まったくない。
じっと柊さんを見ながら考えてると、さすがの彼女ももじもじと身を縮こまらせていた。
そこですかさず言葉を発したのは近石だった。
「いやいや、そんなことないでしょ。なあ葉沼?」
「柊さんには柊さんにしかない良さがあるんだから」
と嘘偽りなく言えば、柊さんは少し微笑んだ。
「よっしーが言うんだったら、そうなんだろうなあ」
「へい、へい。俺が先にフォローしたんだけど?」
「まったく関係ないけど、中学校の同級生がナンパされたらしくてね。その見た目が、誰かさんに似てるんだよな〜。まったく関係ないんだけど、関係するかは誰かさんの態度次第かなあ」
「あ、浮き輪、ご用意できました!」
「けっこうけっこう。仕事が早くて助かるよ」
そう言って柊さんは大きな浮き輪を引っ張って、流れるプールの方へと向かった。その様子を見て、俺と近石はそっと顔を寄せる。
「……着痩せするタイプだとは思ったが」
「あれはなかなかどうして」
何が、とは言わない。怒ったときの恐さではこのあとにやってくる女たちに軍配が上がる。
だがしかし、質量の大きいものは万有引力が大きく働き引き寄せてしまうのだ。男とはまったく哀れな生き物である。一瞬だけ宗旨替えを考えた。
なにしてんの、と柊さんから声がかかった。行ってくるわ、と近石が向かっていく。俺は残るメンツを待つ係だった。
次いでやってきたのは響子さんと菜々実だった。
「ヨシキー、私の浮き輪!」
「はいはい」
俺が膨らませていた子供用浮き輪を身体に通して、ドヤ顔を浮かべる菜々実はどう見ても子供だった。見た目は中学校入学仕立てみたいだから似合うのだけれど、中身は自称五百歳の天使であることを考えると、複雑な感想を抱く。
普段の、少し偉ぶった口調もなくなって完全に子供になってるし。
水着もオレンジのワンピースに白の水玉である。びっくりするぐらい似合ってる。
それで、響子さんはと言うと。
「なんで競泳水着なんですか」
思わず口から出たツッコミ。
すらりとしているから似合ってるのだけれど、この場の装いとして正解ではないだろう。
手足が長いからだろうか、泳ぐのが速そうに見える。
すでに指摘された後のようで、響子さんもつまらなそうな顔を浮かべる。
「だって、プールよ? 泳ぐ場所でしょう?」
「俺は競泳水着好きなのでオーケーです」
「フェチズムでフォローしないでくれる?」
手刀が俺の額に当てられる。フォローしたわけではなく所信表明だったのだけれど。
おーい、とまた柊さんから声がかかった。あれは俺を呼んでるのか、響子さんを呼んでるのかわからない。
「私、苦手なのよね、あの子」
と響子さんは言う。なるほど、と俺は頷いた。
「俺も苦手なんですよ」
「あんなに気に入られてるじゃない」
「響子さんのこと、俺も気に入ってますけど、響子さんはそうじゃないでしょ?」
「……本当に何なの、あんた」
と響子さんは言う。怒ってるのはわかるけど、今度は手が飛んでくることはなかった。
すると菜々実が駆け寄ってきて、響子さんの手を引っ張る。
「キョーコ、早く早く!」
「何で私なのよ。ここにいい子守りがいるじゃない」
「ほら、指名されてるんですから、行ってきてください」
嫌がる響子さんの背中を押す。
なんだかんだ、こうして来てくれるあたり、嫌悪とかよりも戸惑いの方が大きいんだろうな。不思議と世慣れをしていない響子さんは、歳上であるが放っておけない。
菜々実に引きずられるようにして響子さんは連れて行かれた。
そろそろ俺もプールへ向かおう、と思うと、背中からラッシュガードが引っ張られた。
振り向くと、そこには鶴喰がいた。なんだか泣きそうな表情である。
ああ、これは恥ずかしがってるんだろうな、とはわかるが、少しびびってしまう。
「あの、ぱいせん、ちゃんとこっち見てください」
「うぐっ」
露骨に視線を逸らすと、鶴喰は言った。
わかってるんだよ。きちんと目を見て話すべきって。
でも、直視することができない。
すると畳み掛けるように、あるいはトドメを刺すように鶴喰は小さな声で言う。
「ぱいせんに見てもらうために選んだんですけど」
……その言葉は反則だろう!? 水着マジックか!?
俺の葛藤を知ってか知らずか発せられた鶴喰の言葉は、俺の理性を激しく揺さぶった。
おそるおそる、俺は鶴喰を見た。フリルの多くついた水着である。それでもお腹も肩も出ていて、子供っぽさはなく、むしろ大人の雰囲気が出ていた。
「へ、へそ!」
「腋じゃないんですか!?」
「腋も!」
「もっとちゃんと感想言ってください!」
「…………」
「何で黙るんですかー!」
わからない。言葉が出ないのだ。
胸までやってきている感情の塊を出すことを拒んでいる。
息ができないような苦しさがあった。
「もう、二人とも、早く泳ごうよ」
焦れたように、柊さんがやってきて言った。
どうやらずっと呼びかけていたのは、俺と鶴喰に対してだったらしい。
「行きましょうか、ほら」
鶴喰が俺の左手を握る。
小さな、真っ白な手は暖かい。強く握らなかったが、しっかりと掴んでいる。
それだけでたまらなく泣きそうになってしまう。死んでしまった方がいいと思ってしまう。
「ぱいせん、夏休みが始まりますよ」
これもまた、小さな声で。そんな当たり前のことでさえ、わくわくしてしまった。
……ああ、わかった。ようやく自分のことがひとつ、理解できた。
鶴喰がいないと寂しいというのも、自分に欠けているものがあることが悔しいのも、それを持っている人に嫉妬してしまうのも。
「楽しみだな」
「はい! 夏祭りもありますし、あ、七夕も!」
「……八月なんだよな、こっちだと」
なんて他愛ない会話でさえ、抱きしめたくなってしまうことも。
ぜんぶがぜんぶ、たったひとつの答えがあった。俺はこの地獄の名前を知っている。その底で咲こうとしている花の名前だった。
葉沼吉暉は、鶴喰雪花に恋をしているのだ。




