4-8 また名前を呼んで
緑の匂いがする。
さっきまで地下空洞にいたはずなのに、目を開いた先にあった光景は、自然洞窟の中だった。
窓……いや入り口か? そこからは光が漏れているが、照らしているのは俺だけだった。
「ここ、は」
身に覚えのない場所であるが、知らないところではない。
……かつて、シアンカムイが眠っていた暗い底だ。赤岩山の最奥だと、俺は自分のものでない記憶を辿っていた。
赤岩、という名の通り、赤い土が見える。未だ踏み入れたことない場所であるものの、不思議と懐かしい。
ここは心象風景のようなものだ。有り体に言えば、夢の世界だ。カシマ様と戦ったあの空間と同じ。
「なんでこんなところ……ぐっ!?」
俺が声をあげようとしたとき、喉に衝撃が走る。
絞められている。呼吸が苦しい。
目を見開けば、目の前にいたのは白い少女だった。
煌々と輝く赤い瞳、真っ白な髪と肌を持つ、白子の女の子。
怒りと憎しみに形相は染まり、俺の顔を覗き込んでくる。
「名を、名を呼びなさい。大切な名を。忌まわしき名を。白蛇の神としての名を」
少女は言った。いつか、大通公園での騒動のときに言われた言葉と同じだ。
どんな答えが望みか、など考えるまでもなかった。
シアンカムイ、白龍権現。
『名は体を表す』と言う諺がある。その逆もあり得るのが呪だった。
名を呼ばれたならば、名の通りの姿になる。
石上先生が自身を物部に由来する者と、あるいは式神にリョウメンスクナの名を与えたようにだ。
首がさらに絞まる。少女の力はその細腕からは想像もできないほどに強い。
「名を、名を、名を呼びなさい!」
その叫びはあまりにも悲痛だった。
苦しみの中で俺は手を伸ばす。その頬に触れると、少女の赤い蛇の瞳が見開かれる。
「お前の名前は、フミキだ」
ずっと口の中で転がしてきた名前だった。
鶴喰と調べていく中で出会った、かつて生きたアイヌの少女の名。
悲恋と言うべきだろうか。本人の前で、その生を評することなんてできはしないけど。
首を絞める力が弱まる。次いで、俺の頬には温かい雫が落ちる。
フミキは驚いた表情を浮かべて、大粒の涙を落としていた。
「どう、して。どうして、その名前を」
『北海道の口碑伝説』に曰く、フミキという美しい女がある村にいた。
彼女は許嫁のいる身でありながら、内地からやってきた、すなわち和人の男を愛してしまった。その男が船に乗って去っていく際に、狂ってしまった。その様子を哀れんだか、許嫁を放ってうつつを抜かしたことに怒りを覚えたか、父の手によって殺められた。
身体は暗い海の底に沈み、血の滴った後には花が咲いたのだという。
そして、その花を見つけた者こそがフミキの婚約者であった。
文献によって差異は大きくある。和人の男とは恋仲にまでなった、だとか、その最期は誰にも気づかれず入水した、だとか。
けれども、物語の最後だけは変わらない。
フミキは愛した男を追いかけた。そして、フミキを愛した男も、彼女を追いかけたのだ。
嗚咽を漏らしながら、顔をくしゃくしゃにしながら、フミキは泣いている。
俺は呆然とそれを眺めるしかない。
このフミキという少女が、いかにしてシアンカムイになったかは想像するしかできない。地下深くに眠っていた怪獣にその怨念が宿ったか、彼女自身が何らかの媒介になったのは確かだろう。
頬に触れていた手を、フミキは掴んだ。崩れ落ちるようにして、俺の胸にしがみつく。
「私は、私はただ、あの人に愛されたかっただけなの。他のことなんてどうでもいいって、思うほどに」
あの人に。あの人に。
フミキの嘆きが響く。俺の内側に、悲しみが広がっていく。
その願いはとても正しい。何も間違っていないのだ。浅ましいだなんて、卑しいだなんて、誰が言えるだろうか。
「そんなひどい女を、どうして忘れてくれなかったの……」
「お前だって、自分の恋を忘れられないじゃないか」
「でも、そんな風に名前を呼ばれる許しは、私にはない! 私は、竜なのだから」
「いるのかよ、許しなんて。誰だってそうなるから苦しいんだろ」
人はそれ故に、怪獣にだってなってしまう。
フミキはひとしきり俺の胸で泣いた。俺は、もう何も言えなくなって、ぼうっと天井を眺めている。
こんなところにずっといたのだろうか、フミキは。鬱屈として、暗い空間である。気持ちが滅入るのも仕方ないだろう。
けれども、わずかに空いた口から日が差している。そのことが救いのようだった。
やがて泣き止み、フミキは顔をあげた。そして再び俺の顔を覗き込む。
今度は穏やかな笑みを向けている。改めて、美しい少女なのだと感じた。神秘的な雰囲気もある。
「ひどい男。勝手に踏み込んできて、勝手に名前を呼んで、泣いていても抱きしめてくれない」
「勝手に俺の心臓に住み着いてるのはお前だ」
「さっきは力も貸してあげたけど?」
「自分の住処を壊されたくなかっただけだろ」
ふふん、とフミキは得意げに笑う。その笑みは鶴喰を思い出させる。
ガン、と音がした。俺とフミキは、音のした方へ首を動かす。
いつからいたのかはわからないが、そこには猿がいた。黄金の毛を持った巨体が見える。その身体には包帯による拘束がされており、岩にくくりつけられていた。
おそらく、現実の俺に、物理的に施されている封印がこういう形になって現れているのだ。
「表ではどうなってるんだ?」
「暴れてるあなたをみんなで取り押さえてるはず」
「それは困ったな」
俺はフミキをどかそうとするが、彼女は俺の上から動く気配がない。
「あいつをどうにかしたいんだけど」
「うん? どうしましょうか」
「この期に及んで、お前……」
「まあ、二回も負けてしまったわけだし。あれ、赤岩山のときも含めると三回目? ともかく、言うことを聞いてあげる道理はあるけれど、お願いするには態度ってものがあると思う」
「そっくりそのまま同じ言葉を返してやる」
フミキは俺の耳に口元を近づける。
それはむしろ、彼女からのお願いだった。
はあ、とため息を吐く。お前のそういう、めんどくさいところが不評だったんじゃないか、とは口が裂けても言えない。
それに、めんどくささで言えば、俺だって他人のことは言えないし。
「……フミキ、頼む。あいつを抑えておいてほしい」
「聞いてあげる、吉暉。私の名前を呼んでくれた人」
フミキは俺の上からどいて、暴れている巨体……猿神の方へと歩み寄った。
ふふふ、と笑いながら、踊るようにして。
「私が睨みを利かせてあげるから、ゆっくり寝なさい」
あと、と彼女は振り返って言う。
「また名前を呼んで」
その言葉を最後に、天井が、床が崩れていく。
俺は宙に浮いてその光景を眺めるしかない。
また、変わっていく。俺の身体が、心が崩れて、作り直されていく。
今回は少しだけ、心地いいものであったことに安心して、意識を手放したのだった。




