第2話『シグナル・ゼロと、看板娘の香気(かおり) 』
夜風が、麻痺しきった嗅覚を冷たく撫でる。ネオンサインが発する電子的な光の洪水を浴び、創が辿り着いたのは、街の片隅で琥珀色の灯火を漏らす小さな喫茶店だった。
『ルーテ・ブリランテ』。
ドアを開けると、真鍮のベルがチリリ~ンと乾いた音を鳴らす。そこには、デジタルに支配された無機質な外界とは無縁の、温かく、そして絶対的な安らぎの香りが満ちていた。
「――いらっしゃ、……ちょっと創お兄ちゃん! 遅い! 今日は何時に帰るって言ったっけ?!」
店のテーブル奥から、洋館メイド姿の少女が声を張り上げる。
仙道灯里だ。
創が住む部屋兼ラボのアパートのオーナーの娘であり、この喫茶店の看板娘。
彼女の存在こそ、過敏な嗅覚で世界を峻別する創にとって、唯一の「解毒剤」だった。
「悪い。灯里……コーヒー、淹れてくれ。いつもの、『シグナル・ゼロ』を」
創が椅子に深く沈み込むと、灯里は慣れた手つきで豆を挽き始めた。本来、極限まで研ぎ澄まされた嗅覚を持つ創にとって、コーヒーという飲み物は、鼻腔を麻痺させる劇物でしかない。
だが、灯里が彼のためだけに選別し、丁寧に不純物を取り除いたこのブレンドだけは例外だ。
立ち上る微細な香気が、昨夜の悪臭テロで張り詰めていた嗅覚神経を、優しく解きほぐしていく。
「……ふぅ。これでやっと、ゼロだ」
琥珀色の液体を喉に流し込み、創は初めて、戦場から日常へと帰還したことを実感した。
「もう、しょうがないなぁ。……でも、その前に家賃! 明日までに振り込まないと、お父さんに追い出されるからね!」
灯里の容赦のない叱声に、創は苦笑した。家賃の催促というあまりに世俗的な現実。
しかし、喉を通る『シグナル・ゼロ』の苦味が、彼の脳細胞を完全に覚醒させていく。
麻痺していた鼻腔の奥が、劇的に澄み渡る。完全なるゼロ。ここからなら、どんな微細な香気の波形だって掴める。
(そういや、……次の仕事は大手二社の夏のビールCM覇権争い、だったな)
トランクの中で静かに眠る、真鍮のシリンダー『レガシー』の冷たい感触。
創はポケットの上から、その確かな質量を指先でなぞった。AIが弾き出す完璧で均一なデータか、それとも、俺の操る泥臭い「不純物」が勝つか。
「全部いただくぜ。マージンも、勝利もな」
◇ ◇ ◇
……灯里と別れ、創が自室のドアを開ける。
「プシュッ」
無機質で、容赦のない機械音が玄関に響いた。
ナノミストの消臭スプレー。玄関の自動噴霧器から放たれる白い霧が、俺の身体にまとわりついた外界の「汚れ」を容赦なく剥ぎ取っていく。
排気ガスの煤、誰かがこぼした安香水の余韻、商店街の喧騒。それらすべてが化学的に分解され、俺はようやく「無」へとリセットされる。
創は冷蔵庫から、いつものパウチに入った栄養ゼリーを取り出すと、そのままベッドへゴロンと身体を投げ出した。 味気ないゼリーを胃に流し込み、彼は天井の染みをぼんやりと眺める。
先ほどまで手元で感じていた真鍮の重み――『レガシー』の冷たい感触を思い出し、再び苛立ちが込み上げた。
「……足りないな。この程度じゃ、あの『聖域』の維持費にも満たない」
彼にとって、画面越しに沸き立つ数百万人の熱狂も、主婦たちの満足げな溜息も、すべては口座に振り込まれる無機質な数字に過ぎない。
彼が求めているのは、もっと強固なものだ。防弾ガラス、特殊フィルター、幾重もの電磁シールドで固められた、この世のあらゆる匂いを遮断する無臭の要塞。
「亡き父」という名の呪縛。それを完全に遮断するための、完璧なる城。
かつて親父がその類まれな嗅覚で世界を支配したように、自分は親父が遺した歪んだ爪痕を、すべて無へと還すための要塞を築く。
そのために、この薄汚れたシステムをハックし、金という名の燃料を稼ぎ続ける。
「待っていろよ、親父。あんたが壊した平穏を、俺が全部買い戻してやる」
誰にも届かない独白が、無臭の部屋に虚しく響いた。
だが、今の創には、その要塞を維持するためのコア・モジュール自体が致命的な損傷を負っている。これ以上の精度の高い調香は、現状のシステムでは不可能だ。
創はパウチをゴミ箱へ放り投げ、起き上がった。
「部品が足りない。……『ジャンク屋』にいる、あの気難しいオッサンに会わないといけないな」
創はそう呟くと、夜風の吹き抜ける路地裏へと再び飛び出した。
向かう先は、街の喧騒から隔絶された古びたジャンク街。そこには、創の調香技術の根幹を握る、唯一無二の技術者が潜んでいる。
彼が憎み、そして何よりも求めている「父」の影。その正体を知らぬまま、創は真実の淵へと近づいていく――。
真夏の代理戦争の火蓋は、すでに切って落とされていた。




