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書き殴られた未完の物語標本  作者: かがみゆえ


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20/24

昨日を覚えていない家

⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

 .





 目覚めたとき、天井の木目がやけに鮮明に見えた。

 知らない天井だった。

 天井はどこか歪んだ生き物の血管のようにも、苦悶に満ちた誰かの顔のようにも見えた。


 私はしばらく瞬きを繰り返し、それからゆっくりと起き上がる。

 見慣れない部屋だ。

 目に映るものすべてが、自分の人生から切り離されているような感覚がある。

 白い壁は不自然なほど清潔で、窓にかかった簡素なカーテンは重たく垂れ下がっている。

 部屋の隅には、いくつかの段ボール箱。

 引っ越したばかりのような空気が漂っていた。


「……ここ、どこだ」


 声に出してみると、喉の奥が張り付いたような乾いた音がした。

 自分の声のはずなのに、遠くの誰かが喋っているように聞こえる。

 ふと、ベッドの脇にある小さなテーブルに目が留まった。

 そこに一枚の紙が置かれていた。

 白いコピー用紙に、黒いマジックで書かれた手書きの文字。


【落ちついて。あなたは昨日ここに引っ越してきました。おどろかないで。まず、この部屋を見て回ってください】


 思わず紙を見つめる。

 少し右上がりに流れる癖のある丸みを帯びた文字は、間違いなく私のものだ。

 だけど、“昨日”という記憶が頭の中からすっぽりと抜け落ちている。

 いや、昨日だけじゃない。

 自分が誰で、どこから来て、なぜこの部屋にいるのか。

 名前すら霧の向こう側に隠れてしまったかのように思い出せなかった。


 慌ててポケットを探ると、スマートフォンが見つかった。

 指紋認証であっけなく解除された。

 画面には見慣れないメモアプリがいくつも並んでいる。

 私は吸い寄せられるように、最新のメモをタップした。


【これは何日目か分からない。でも重要。この家で眠ると“前日の記憶”を失う。原因は不明。外に出ても変わらないかは未確認。とにかく、この画面にある記録をすべて読んで】


 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。

 悪い冗談だ、そう思いたかった。

 だけど今の自分にはそれを否定する材料が何ひとつない。

 私は震える指で、過去のメモを遡っていった。


【2日目。やっぱり消えてる。怖い。朝起きたら知らない場所で知らない服を着ていた。鏡を見るのが怖い】


【3日目。外に出た。必死に走って街まで出た。誰かに助けを求めようとした。でも気づいたらこの部屋のベッドで目が覚めた。眠ったら最後すべてがリセットされる】


【4日目。この家が原因かどうか分からない。でも、部屋に違和感がある。何かが“増えている”気がする】


「増えている……?」


 私はスマートフォンを握りしめたまま、ゆっくりと部屋を見渡した。

 段ボール箱は四つ。

 ……いや、五つ?

 さっき起きたとき、視界の端に入ったのは三つだったはずだ。

 見間違いだろうか。

 それとも私がメモを読んでいる数分の間に、音もなく増えたのだろうか。


 嫌な汗が背中を伝う。

 静まり返った部屋の中で、自分の呼吸音だけが異常に大きく響く。

 テーブルの上にはもう一枚、写真が伏せて置かれていた。

 それを指先で裏返す。

 写っていたのは今、私が立っているこの部屋だ。

 構図は今と同じだが、決定的な違いがあった。

 写真の隅、クローゼットの影の部分に薄暗い“人影”が写っている。

 形はぼやけているが、確かに人間のシルエットだ。

 それは壁に張り付くようにして、じっとこちらを窺っているように見えた。


 反射的に背後を振り返る。

 もちろん、そこには誰もいない。

 ただ真っ白な壁があるだけだ。

 だけど、肌に突き刺さるような視線を感じる。

 ねっとりとした空気が肌にまとわりつく。


 私は再びスマートフォンの画面を見た。

 写真のアルバムを開く。

 日付順に並んだ画像。

 そのほとんどが、この部屋を撮影したものだった。


 朝の光に照らされた部屋。

 昼下がりの埃が舞う部屋。

 そして、夜の写真。


 私はある一枚の写真をタップした。

 そこには、はっきりと写っていた。

 ベッドで無防備に眠る私の姿。

 そして、そのすぐ傍らに立つ“誰か”。

 顔は暗がりに沈んでいて見えない。

 直立不動のまま、じっとカメラのレンズを―――その先にいる“私”を見下ろしている。

 指が震えながらも画面をスワイプする。


 次の写真。

 その“誰か”は、一歩だけベッドに近づいている。

 その次の写真。

 “誰か”はベッドの縁に手をかけ、身を乗り出している。

 そして、最後の一枚。

 私は思わずスマートフォンを取り落とした。


 フローリングにぶつかる乾いた音が、静寂を切り裂く。

 画面いっぱいに至近距離から写された顔があった。

 それは紛れもなく―――私の顔だった。

 しかし、決定的な違いがある。

 瞳がなかった。

 そこにあるのは、黒いインクを流し込んだような底のない暗い穴。

 その“私”がカメラに向かって、口角を耳元まで引き裂かんばかりに歪めて笑っていた。


『気づいた?』


 背後から吐息混じりの声がした。

 心臓が止まるかと思った。

 全身の血が足元から引いていく。

 指先一つ動かせない。

 首を動かすことさえ、巨大な機械を動かすような重労働に感じられた。

 それでも、私は見てしまった。

 ゆっくりと背後の“私”と目が合う。

 そこに立っていたのは、やはり私だった。


 同じ服、同じ背丈、同じ髪型。

 ただ、その目だけが光を一切反射しない“虚無の黒”で塗りつぶされていた。


『やっとここまで来たね』


 それは私の声で、私の喉を使って囁いた。

 鏡を見ているのではない。

 私という存在が此処に二人存在している。


『何回も繰り返したよ。君は毎日忘れる。だから、毎日同じことをする。この部屋の異変に気づいて、メモを読んで、絶望して……。よく飽きないよね』


 私は声にならない悲鳴を上げながら、後ずさる。

 下がれば下がるほど、逃げ場はない。


『でもね、それでいいんだ。君が忘れてくれるから、私はここにいられる。君が“今日の自分”を捨てるたびに私はそれを拾って、少しずつ形を作ってきたんだから』


 黒い目の“私”は、一歩また一歩と近づいてくる。

 その歩き方はどこかぎこちなく、まるで作られたばかりの人形のようだった。


『この家はね、“記憶を食べる”んだよ。正確に言えば、君の存在そのものを少しずつ削って食べている。代わりに君を永遠にここに閉じ込めるんだ』


「……っ、そんな、わけが……!」


『嘘だと思う? 君、昨日も同じこと言ってたよ。昨日だけじゃない。一週間前も一ヶ月前も。出ていこうとしただろう? でも結局、玄関を開けたらここに戻ってくる。全部、忘れるから』


 黒い“私”が私の頬に手を伸ばした。

 その指先は氷のように冷たく、生き物の体温を感じさせない。


『安心して。もうすぐ“君”も完全にこっちになる。この入れ替わりが終われば、もう忘れることに怯える必要もなくなるよ』


「交代……? 私が、お前になるのか……?」


『いや、私が“本物”になって外に出るんだ。君は……そう、そっちに行くんだよ』


 黒い“私”が部屋の壁を指差した。

 先ほどまではただの白い壁に見えていた。

 目を凝らすと壁の表面が波打っているのが分かった。

 壁の奥から何かが浮かび上がってくる。


 それは、無数の“顔”だった。

 何十何百という“私”の顔が、壁の内側に閉じ込められていた。


 ある者は目を剥き、ある者は声なき叫びを上げ、ある者はただ絶望に染まった目でこちらを見ている。

 壁から突き出た無数の手が助けを求めるように虚空を掴んでいる。


『歴代の君たちだよ。昨日までの君、その前の君。みんな、記憶と一緒にここに吸収されたんだ』


 黒い“私”はまるでお気に入りのおもちゃを紹介するように、慈しみを持って壁を撫でた。


『大丈夫。痛いのは一瞬だけ。すぐ慣れるよ。壁の中はとっても静かだから』


 頭の中で何かが切れる音がした。

 恐怖が限界を超え、私は本能のままに走り出した。

 向かうのは入り口のドアだ。

 この狂った部屋と自分自身から逃げ出すために。

 ドアノブに手をかけ、全力で回す。


 ガチャン!

 ガチャン!


 開かない。

 鍵はかかっていないはずなのに、ドアは微動だにしない。


『無駄だよ。この部屋が君を離さない』


 すぐ耳元で、冷たい声が響いた。

 振り向く間もなかった。

 背後から冷たい腕が回され、私の視界が反転する。

 床に倒れ込み、全身に激しい衝撃が走った。

 視界が急速に狭まっていく。

 まるで映画のスクリーンが閉じていくように、端の方から闇に侵食されていく。


 意識が遠退く中、最後に見えたもの。

 それは、私の身体を跨ぐようにして立ち、自分の新しい“瞳”を確かめるように鏡を覗き込む“私”の姿だった。





 目覚めたとき、天井の木目がやけに鮮明に見えた。

 知らない天井だった。

 天井はどこか歪んだ生き物の血管のようにも、苦悶に満ちた誰かの顔のようにも見えた。


 私はしばらく瞬きを繰り返し、それからゆっくりと起き上がる。

 見慣れない部屋だ。

 目に映るものすべてが、自分の人生から切り離されているような感覚がある。

 白い壁は不自然なほど清潔で、窓にかかった簡素なカーテンは重たく垂れ下がっている。

 部屋の隅には、いくつかの段ボール箱。

 引っ越したばかりのような空気が漂っていた。


「……ここ、どこだ」


 声に出してみると、喉の奥が張り付いたような乾いた音がした。

 自分の声のはずなのに、遠くの誰かが喋っているように聞こえる。

 ふと、ベッドの脇にある小さなテーブルに目が留まった。

 そこに一枚の紙が置かれていた。

 白いコピー用紙に、黒いマジックで書かれた手書きの文字。


【落ちついて。あなたは昨日ここに引っ越してきました。おどろかないで。まず、この部屋を見て回ってください】


 思わず紙を見つめる。

 少し右上がりに流れる癖のある丸みを帯びた文字は、間違いなく私のものだった―――……。


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