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書き殴られた未完の物語標本  作者: かがみゆえ
記憶にまつわる話

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【後編】記憶が逆再生する老人

⚠️この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。

 .





 ある日。


「君は誰だ? 予備校の学生さんかな」


 ベンチに座っていたのは、二十代の青年の顔をした佐伯さんだった。

 声の張りも、座り方も、年老いた人のそれではない。


「通りすがりです。ここで一休みさせてもらってもいいですか」


 僕は迷った末に、そう答えた。

 青年は少し警戒するような素振りを見せたが、やがて爽やかに笑った。


「変な人だな。まあ、座りなよ。ここは風が通って気持ちがいい」


 その日、僕たちは“初めて会う二人”として語り合った。


 これからどんな仕事に就きたいかという夢。

 自立することへの不安。

 そして大切な恋人のこと。


 僕は知っていた。

 この人が歩む未来を。

 どんな仕事をし、どんな娘が生まれ、どんなふうに年を重ねていくのか。

 そして、最後にはすべてを忘れてしまうことも。

 でも、僕は何も言わなかった。

 未来を教えることは、彼にとってあまりに残酷だと思ったからだ。

 彼は今、輝く未来だけを見つめている。

 その先に待つ“忘却”を知らせる必要なんてない。


 数日後。

 青年はさらに若くなっていた。


「高校受験がさ、嫌でたまらないんだ。数学の証明なんて、大人になって何の役に立つんだろうね」


 彼はもう、背広ではなくどこか古臭いデザインの学生服を着ていた。


 その次の日。


「昨日、野球部でレギュラーを取ったんだ! 監督に名前を呼ばれたときは、心臓が止まるかと思ったよ!」


 彼は無邪気に笑い、見えないバットを振る真似をした。

 僕はもう、言葉を失っていた。

 人の人生が、毎日少しずつ剥がれ落ちていく。

 思い出がなくなるたび、彼の背負っていた重荷は消え、心は軽くなっていくようだった。

 だが同時に、それは恐ろしく空っぽになっていくことでもあった。

 昨日まで持っていたはずの七十年の重みがどんどん消えていく。


 ある夕方。

 ベンチに座っていたのは、もう“老人”でも“青年”でもなかった。

 短パンを履いて、泥だらけの靴を履いた小学生くらいの少年だった。


「おじさん、誰?」


 中学二年生の僕を、彼は“おじさん”と呼んだ。


「散歩してる人だよ。君は?」


 僕は少し笑って、でも泣きそうな気分で答えた。


「僕は、佐伯。……ねえ、僕ね、いつか立派な大人になるんだ」


 少年はベンチで足をぶらぶらさせながら、遠くの山を指差した。


「……そうだね」


「優しくて、みんなに頼りにされる立派な人になるんだ」


「なるよ。君は本当になるよ」


 僕は深く、深くうなずいた。

 知っている。

 あなたは本当に立派な人になる。

 家族を愛し、仕事に打ち込み、長い、長い人生を一生懸命に生き抜く。

 そして最後には、その全部を美しく忘れてしまうんだ。


 その翌日。

 いつもの時間にベンチへ行くと、そこには誰もいなかった。

 胸騒ぎがして、教えてもらったことのある佐伯さんの家へ向かった。

 そこはひっそりと静まり返り、“空き家”のような冷たさを纏っていた。


 近所の人に恐る恐る尋ねてみると、佐伯さんは数日前の夜、布団の中で静かに息を引き取っていたという。

 苦しんだ様子もなく、ただ眠るような最期だったらしい。


 僕は一人、また川沿いのベンチに戻った。

 春の終わりの、少し湿った風が吹いている。

 ふと、ある疑問が頭をよぎった。

 もし、佐伯さんの意識が本当に時間を逆走していたのだとしたら。


 僕が最後に見たのは、小学生の彼だった。

 その翌日、彼はもっと幼く幼稚園児くらいの自分に戻っていただろう。


 さらにその翌日。

 亡くなったその日の、直前。

 彼の記憶は、どこに辿り着いたのだろう。


 優しかったお母さんの腕の中か。

 この世に生を受けたばかりの、産声の瞬間か。

 それとも……生まれる前の暗くて、温かい何もない静かな場所か。


 僕は急に背筋が寒くなった。

 人は死ぬとき、未来へ向かって消えていくのではない。

 もしかしたら、すべての記憶を“逆再生”して、生まれた瞬間の“ゼロ”を通り越し、生まれる前の“永遠の静寂”へと戻っていくのではないだろうか。

 川の水面が、夕日に照らされて黄金色に揺れている。


「ねぇ」


 そのとき、背後から衣擦れのような微かな音と、小さな声が聞こえた気がした。

 僕は心臓を跳ねさせながら、振り返った。

 そこには、誰もいない。

 ただ風が草を揺らしているだけだ。


「ここ……どこ?」


 だけど僕の耳には確かに、言葉を覚えたてのような幼い子どもの声が届いた。


 僕はしばらく動けなかった。

 もし、人生の最後に残るものが積み上げた思い出ではなく、これから始まる何かへ“予感”なのだとしたら。

 佐伯さんは今、この世界のどこかで新しい“明日”を始めようとしているのかもしれない。


 僕は立ち上がり、誰もいないベンチに一度だけ礼をして、ゆっくりと歩き出した。

 川の流れは、いつまでも変わらず、未来へと続いていた。


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