くだらない人間
――――ああ、なんと素晴らしいものなのだろう。
マザースライム――もとい、アリシアは毎日のようにそう感じていた。
人間の目を通して見る世界が、これほど色鮮やかで、光明に満ちたものであるとは知らなかった。
同室のセリスとは、ほとんど話さなかった。
計画に支障はないだろうと判断し、マザースライムは彼女を放置することに決めたのだ。
目的はただひとつ、グレイを討つことだ。
セイレーンリングからの影響やアリシアの感情は斟酌するに値しない。
しかしながら、あの一件以来、グレイはこの町に訪れていないようだった。
あれほどまでに巧妙に姿を隠す技術を持っているのだから、どこかに潜んでいてもおかしくはないのだが、ラピスよりも優れたマザースライムの能力を持ってしてもその魔力の残滓すら見つけられなかった。
ただ、アリシアの記憶を読んでいるマザースライムには邂逅の契機が予測できた。
一年の最後には、保護者と教師の面談がある。
それは代理人を立てても可能なのだが、アリシアには親しい人物が他にいない。
グレイは学院長のローディウスとも親交が深く、何か特別な理由がなければその時には姿を現すはずだと確信を持てていた。
だから、マザースライムはアリシアの身体を使って、人間の生活を謳歌することに決めた。
その行動の危うさを認識することもないまま、時は過ぎ、やがて、窓の外に初雪がちらつき始める。
豊穣の季節が終わり、やがて、静寂の季節がやってきたのだ。
『アリシア』は、寮の友人たちに声をかけながら、冬の到来について雑談を交わす。
様々な地方からの出身者も多い学院であるため、雪を間近で見たことのない者もいるようだった。
「アリシアさんは色んなことにとてもお詳しいのですね」
新たに親睦の深まった者は皆そう言う。
そして、決まってこう返すのだ。
「少しの知識欲と豊かな感受性があれば、どなたでも見聞を深めることは可能ですよ。あなたもご一緒に、私と勉学に励んでみては?」
「い、いえ、そんなそんな! 私なんかが一緒にいてはお邪魔になってしまいます! 失礼します!」
冷静で淡々とした口調が、どうやら彼女たちの感情を揺さぶっているようで、数週間も待たずして、アリシアは学年の人気者へと成り上がっていた。
これはアリシアにとってこの上なく理想的な環境であった。
彼女たちはアリシアに気に入られようと、彼女の喜びそうな噂話を嬉々として伝えてくれる。
こちらから依頼せずとも、勝手に関係のありそうな話題が集まってくるのだ。
あとは自分の知識と能力で精査するだけで、簡単に正しい情報が集められる。
これを利用しない手はないと思った。
それとなく、人捜しをしていることを伝えておく。
もちろん、探しているとは言わず、眼帯をした老人が親族であることだけを伝えておけば、あとは目撃情報が入ってくるのをただ待つだけでいいのだ。
グレイがいかに姿を隠していても、人間社会で生きている以上、他人との接触を完全に断つことはできない。
――雪の日が少しずつ増え始めたころ、同室者のセリスが、久しぶりに口を利いた。
「……アリシア、あなたは……」
「どうかされましたか?」
アリシアは深海のような群青色の目を細め、柔らかな笑みを浮かべてそう聞く。
セリスは何か聞きたいことがあるのだろうが、それを躊躇しているように見える。
しかし、マザースライムとして、その事柄――彼女自身には一切の興味がない。
「いえ、何でも……」
「もしかして、私の心配をしてくれているのですか?」
「…………」
肯定とも否定ともつかない表情だ。
アリシアはその姿に嫌悪感を抱く。
何か気になるのなら聞けばいいし、嫌いなら嫌いと言えばいい。
駆け引きのような無意味な会話を続けることが苦痛に感じ、アリシアは早々に会話を切り上げた。
「私は明日もしなくてはならないことが多いので、では、これで」
「あっ……。ごめんなさい。あなたに話したいことがあったのだけれど、話すべきか迷ってしまって」
俯くセリスを無視して、アリシアは自身のベッドで横になる。
まったく無意味で無価値な小娘だ。
何一つ為すべきことも為せぬまま、少しばかりの賢さで仇討ちの計画を立て、失敗に終わり、明らかに自分の手の届かない大きな災いへと首を突っ込んでいる。
(迷いなく唾棄すべきもの。自分の能力も把握できていない。身の丈に合わない志と大言壮語でプライドを保っている。くだらない人間)
より優秀な人間たちが半生をかけて追い続けている呪具を、どうして自分に関わる資格と権利があると思っているのか、理解に苦しむ。
いつしかマザースライムにとって、セリスは最も嫌悪の対象となる人間となっていた。
その会話を最後に、同室でありながら、アリシアは彼女と言葉を交わすことはなくなった。
勉学と実技において最優秀となったアリシアに、彼女はすでに不要なものとなっていたのだった。




