第27話 春雷の文、静かなる覚悟
春の雨が、
等々力の渓谷に静かに降り注いでいた。
雨粒が竹筒を叩き、
「コト……コトン……」
と柔らかい音を響かせる。
その音の中、
早苗は拝殿で一通の文を開いていた。
大坂の大宮神社を経由して届いた、
豊臣秀吉からの正式な下命である。
文は、
雨に濡れたように淡く光っていた。
「……御使い様。
それは……秀吉公からの……?」
清正の声が震えていた。
早苗は静かに頷いた。
「ええ。
大宮神社が、私たちの“敵意なき協力”を
丁寧に取り次いでくれたわ」
文には、
秀吉らしい簡潔で強い言葉が並んでいた。
『等々力橘神宮、
その協力の心、まことに悦ばしきこと。
いずれ我が軍が近くを通る折は、
宿舎として地を貸し、
食糧を供出せよ』
清正が息を呑んだ。
「しょ、食糧供出……
宿舎……
まるで……」
「ええ。
“味方として扱う”という意味よ」
早苗は文をそっと畳んだ。
(敵ではない。
臣従も求められていない。
ただ――
協力を求められた)
それは、
神社としての立場を守りつつ、
未来への道を開くための
“最良の形”だった。
文の後半には、
さらに重要な一文があった。
『等々力方面軍の総大将は、
徳川家康に任ずる』
雅信が青ざめた。
「い、家康公が……
この地の軍勢を……?」
「そう。
だから――
家康公の指示を仰ぐように、
と書かれているわ」
清正は震える声で言った。
「御使い様……
これは……
等々力が……
豊臣方の“正式な通路”になるということでは……」
早苗は静かに頷いた。
「ええ。
だからこそ――
備えなければならない」
早苗は立ち上がり、
拝殿の扉を開いた。
雨の匂いが流れ込み、
渓谷の緑がしっとりと濡れている。
「雅信さん。
吉良家と北条家に“裏切り”と見なされないように、
防衛を強化します」
雅信は息を呑んだ。
「御使い様……
それは……
戦の準備にございますか」
「違うわ。
“守り”の準備よ」
早苗は静かに言った。
「武器を整え、
食糧を蓄え、
道を塞ぎ、
見張りを増やす。
すべては――
等々力を守るため」
清正が頷いた。
「吉良家が敗れ、
北条家が滅びたとき……
この地が狙われる可能性がある、ということですね」
「ええ。
だからこそ、
悟られないように、
静かに備えるの」
雨が竹筒を叩き、
「コト……コトン……」
と響いた。
その音は、
まるで“急げ”と告げる春雷のようだった。
早苗は雨の中、
静かに祈りの姿勢をとった。
(どうか……
この地を守る道を……
私に示してください)
雨粒が頬を伝い、
まるで涙のように落ちた。
等々力の巫女、橘早苗。
その知恵は、豊臣の影と北条の滅びの狭間で、
静かに、しかし確かな道を切り開き始めていた。




