第25話 黒き使者、沈む未来
春の終わりを告げる風が、
吉良家の城下を静かに撫でていた。
その風の中を、
黒い直垂をまとった北条家の使者が進んでいく。
馬の蹄が石畳を叩く音は、
まるで戦の足音のように重かった。
吉良家の広間には、
国衆・土豪たちがずらりと並んでいた。
等々力からも雅信と清正、
そして――
巫女である早苗も呼ばれていた。
北条家の使者は、
早苗の姿を見るとわずかに目を細めた。
(……力を測られている)
その視線は、
まるで“神の力”を探るようだった。
使者は静かに口を開いた。
「北条家よりの御達しに候。
豊臣秀吉――あの男は、
関東の地を乱す逆臣にてある。
我ら北条こそ、
正しき武家の棟梁なり」
広間にざわめきが走る。
使者は続けた。
「ゆえに、
小田原に籠り、
天下に我らの意志を示す。
吉良家もまた、
正しき道に従い、
兵を差し出すべし」
その言葉は、
まるで北条家こそ“天下の中心”であるかのようだった。
(……これが北条家の独善)
早苗は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
小田原征伐。
北条家の滅亡。
関東の地が大きく塗り替わる戦。
その結末を、
早苗は知っている。
(この道を進めば……
吉良家も巻き込まれる)
やがて吉良家当主・義安が口を開いた。
「等々力衆は……
領地の守りに残す」
広間が静まり返った。
「山深き地は、
守りの要に相応しい。
等々力は……
後詰めとして働けばよい」
その言葉は、
表向きは“配慮”に聞こえた。
だが――
早苗には分かった。
(……手柄を立てさせないため)
吉良家は、
等々力衆が無傷で帰還したことを
“嫉妬”していた。
護符の噂は広まり、
巫女の名は兵たちの間で囁かれ始めている。
それを、
吉良家は快く思っていない。
等々力へ戻る道すがら、
早苗は静かに言った。
「……神官を、京都と大坂へ送ります」
清正が息を呑んだ。
「豊臣秀吉公へ……
伝手を求めるために、ですか」
「ええ。
吉良家が滅びれば、
等々力も巻き込まれる。
だから……
道を作らなきゃいけない」
その瞬間、
雅信の顔が強張った。
「御使い様……
それは……
北条家にも、吉良家にも背くことに……
我らは……どうすれば……」
早苗は立ち止まり、
雅信の方へ向き直った。
夕陽が山の端に沈み、
渓谷に長い影を落としている。
早苗は静かに言った。
「雅信さん。
私たちは“武家”ではありません。
神に仕える身です。
吉良家のために生きているのではなく――
“神の地である等々力”と、
“神の民”を守るために存在しているのです」
雅信は息を呑んだ。
早苗は続けた。
「武家の争いに巻き込まれて、
神の地が滅びるわけにはいきません。
だから……
これは背くのではなく、
“務め”なのです」
その言葉は、
嘘も方便だった。
だが――
村を守るためには必要な嘘だった。
雅信は深く頭を下げた。
「……御使い様。
そのお言葉、胸に刻みます」
風が吹き、
竹筒が鳴った。
「コト……コトン……」
その音は、
まるで“急げ”と告げるように響いた。
等々力の巫女、橘早苗。
その知恵は、歴史の大河を前にして、
静かに、しかし確かな一歩を踏み出した。
小田原征伐――
その影は、すでに村のすぐそばまで迫っていた。




