沈黙の後に — 女王の仮面とひとつの名前 —
称賛は、海の上で生まれた。
だが――それを受け取る者は、陸の上で笑っていなければならない。
これは、誰にも見せない夜の話。
ハワード邸のドローイングルームに、ニュースの音声が静かに流れていた。
『次のニュースです。王立海軍シードラゴン艦隊司令部の発表によりますと——』
映し出されたのは、白く輝く一隻の船。
紅海を抜け、なお進み続ける姿。
ノイズ混じりの無線。呼びかける声。そして、長く響く汽笛。
レイコは、口元を押さえた。
目を逸らせない。
『——各国からは、その勇気を称賛する声が相次いでいます』
音声が終わる。
沈黙。
エディが、静かに告げる。
「レイコ様、お支度を。DMCの招待です」
一拍。
「遅れるわけにはまいりません」
「……大丈夫よ」
短く応じ、立ち上がる。
「手伝って」
選ばれたのは、ロイヤルブルーのロングドレス。
夜の海のような色。
首元には、光を象ったダイヤモンド。耳元にも、同じ輝き。
エディは一瞬だけ言葉を失う。
——理解した。
これは装いではない。
意思だ。
「お綺麗ですよ。…誰よりも。」
それだけを告げる。
レイコは微笑み、手を差し出す。
エディは一礼し、その手の甲に口づける。
形式的に。完璧に。
シャンデリアの光が揺れるホール。
レイコはその中心に立っていた。
差し出される言葉に、正確に応じる。
笑みは崩れない。
「見事ですな、ハワード令嬢」
「光栄です」
隙はない。
誰一人として、彼女の内側に触れられない。
その夜——
彼女はすべてを演じ切った。
帰宅。
ドアが閉まる。
それだけで、世界が変わる。
レイコは数歩進み、立ち止まる。
アクセサリーに手を伸ばし——止まる。
指先が、ダイヤに触れる。
冷たい光。
呼吸が浅くなる。
次の瞬間、力が抜けた。
床に膝をつく。
ドレスの裾が広がる。
それでも、姿勢は崩れない。
ただ——
涙が落ちる。
音もなく、止まらない。
唇が、わずかに動く。
「……クリスタニア」
それだけだった。
指先が、胸元の光に触れる。
遠い海をなぞるように。
扉の外で、エディは立っていた。
その名を、聞いていた。
だが——
動かない。
扉に触れた手を、静かに離す。
入ることはできない。
自分には、その資格がないと知っているからだ。
エディは、そっとその場を離れた。
室内には、静かな嗚咽だけが残る。
小さく。
だが深く。
長く、響いていた。
海では声が届く。
陸では、届かない。
その違いを、彼女は知っている。
そして、それを越えない者もまた存在する。




