紅海離脱 — 届かなくても、消えない声 —
すべてを救えるとは限りません。
それでも海では、声を返すことが求められます。
クリスタニアは微速のまま、紅海を進んでいた。
無線は開かれている。だが流れてくるのは、ほとんどがノイズだった。
その中に、わずかに混じる音。
「……また来ます」
通信士の声が震える。解析が走り、断片的な船名が浮かび上がった。
ブラックビューティー。ゴールドタイガー。ホークアイ。
それだけだった。
位置も、状況も分からない。ただ、そこにいる。それだけが残された。
リヒトはしばらく黙っていたが、やがて静かに言う。
「本社へ送れ」
運航管理部は即座に応答した。
「確認した。これ以上の滞留は認められない。先を急げ」
誰も反論しなかった。それが正しいと分かっているからだ。
「針路、維持」
操舵手が応じる。クリスタニアは、わずかに速力を上げた。
リヒトはマイクを取る。
“With love.”(愛を込めて)
短く、それだけだった。
低く、長い汽笛が紅海に響く。
沈黙。
やがて、遠くから返る。かすかに、だが確かに。
長音。
無線が揺れる。
“…to love…”(……受け取った……)“…to love…”(……こちらも……)“…to… love…”(……愛を……)
それは応答ではない。命令でもない。救助でもない。
ただ、そこに在るという証だった。
「……記録しろ」
リヒトは言う。
「すべてだ」
やがて無線は静かになっていく。ノイズすら遠ざかる。
「紅海離脱ライン、接近」
航海士の声。
海の色が変わる。
リヒトは最後に一度だけレーダーを見た。
何も映らない。
だが、そこに確かに船たちはいた。
薄暗いブリッジ。
航海灯だけが静かに揺れている。
「現在針路、〇九〇。速力十八ノット。ジブラルタルへ向かう」
淡々とした報告。
「了解」
短い応答。
レーダーは安定。
異常なし。
護衛艦は進む。
ただ、任務どおりに。
応答が届かない海もあります。
それでも船は進みます。任務として、そして意思として。
交わらない航路があることもまた、この海の現実です。




