転針— 白薔薇は見捨てない —
海は広く、静かです。ですが、その静けさの下では、常に誰かが支えています。
これは、見えないところで繋がる船たちの物語です。
レジェンディアとの反航から、数時間。
クリスタニアは静かに北上を続けていた。
「紅海進入まで、あと三時間」
報告は簡潔だった。
だがブリッジの空気は、すでに平時のそれではない。
船首には日英の国旗、そして社旗。
AISは稼働したまま。
——存在を隠さない。
それが何を意味するか、誰もが理解していた。
「……微弱信号、入ります」
通信士の声が落ちる。
スピーカーから流れたのは、断片的な声だった。
“…This is… VLCC… Clydes…dale… requesting… response…”
(……こちら……VLCC……クライズデール……応答……願う……)
空気が凍る。
“…can anyone hear us…?”
(……誰か……聞こえるか……)
「識別完了。クライズデールで確定」
リヒトは即座に言った。
「エリコ常務をブリッジへ」
数分後、エリコが現れる。
状況は一目で足りた。
「本社回線を開いて」
ノイズの向こうで、声が続く。
“…Fuel critical… crew exhausted…”
(……燃料限界……クルー疲弊……)
“…we can’t hold much longer…”
(……もう長くは持たない……)
遠く、鈍い爆発音。
誰も言葉を挟まない。
リヒトはマイクを取る。
“This is Crystania. You’ve done well.”
(こちらクリスタニア。よく耐えている)
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
“Return home. You are not alone.”
(帰ろう。君は一人ではない)
わずかな沈黙。
やがて、かすれた声。
“…Roger… Glory… to the White… Rose…”
(……了解……白薔薇に……栄光……)
通信は、そこで途切れた。
その言葉を、聞き逃した者はいなかった。
⸻
「……白薔薇、か」
遠く。
空母ウォルシンガムのブリッジ。
「艦長、商船が“White Rose”を確認した模様です」
静かな返答。
「ワールウィンドを出せ」
“Whirlwind, you are cleared.”
(ワールウィンド、発艦許可)
“Whirlwind copies.”
(ワールウィンド了解)
“Whirlwind airborne.”
(ワールウィンド、離陸完了)
⸻
クリスタニアへ、本社から指示が入る。
「クライズデールに退避ルート通達。サラーサ経由、シンガポールへ」
「通信状態不良。本船中継が必要です」
エリコは頷く。
「繋いで」
リヒトが回線を開く。
“Clydesdale, this is Crystania. Relaying HQ instructions.”
(クライズデール、こちらクリスタニア。本社指示を中継する)
ノイズの中、かすかな応答。
“Proceed to Salalah. Refuel, then head for Singapore.”
(サラーサへ退避、補給後シンガポールへ)
一拍。
“Follow Legendia’s wake.”
(レジェンディアの航跡を辿れ)
長い沈黙。
そして——
“…Roger… Long live the Queen…”
(……了解……女王……万歳……)
次の瞬間。
低く、長い汽笛が海を震わせた。
「……転針を確認」
誰かが呟く。
それは、生きて帰るための針路だった。
⸻
その遥か上空。
ワールウィンドは、ただ静かに飛んでいた。
視界の先。
針路を変えた巨大な影。
そして、そのさらに向こう。
白く輝く一隻の船。
⸻
クリスタニアは進む。
紅海まで、あと二時間。
船はただ物資を運ぶだけではありません。
互いに声を届け、進路を示し、時に命を繋ぐ存在です。
白薔薇とは、特別な船の名ではなく、海運に関わるすべての船に向けられた祈りです。
どうか、すべての船が無事に帰れますように。




