航海士の嫉妬 — 君の一番は誰なんだ —
騒がしい航海も、いよいよ終わりに近づいてきました。
晴海入港まで、あと一日。
嵐や軍用機に振り回されたレジェンディアですが、
今夜は少しだけ静かな時間です。
ただし——
航海士の心は、あまり穏やかではないようですが。
何とも賑やかな出来事を残しながら、船団はアリューシャン列島、そしてアッツ島海域を通過した。
レジェンディアは、遅れを取り戻すかのように出来うる限りの全速力で南下している。
荒れた北太平洋を抜けると、空気はどこか柔らかくなっていた。
日本は、もう近い。
晴海入港まで——あと一日。
夜のデッキには潮の匂いと、かすかな機関の振動だけがあった。
リヒトは一人、手すりにもたれて海を見ていた。
航海士としての仕事は、ほとんど終わっている。
未だかつて、まるでジェットコースターのような航海があっただろうか。
コーヒーを片手に、ぼんやりと海を眺める。
あとは予定通り入港するだけだ。
だが——
胸の奥は、なぜか落ち着かなかった。
その時だった。
デッキの向こう側から、声が聞こえる。
レイコとエディだ。
リヒトは気づかれない位置に立ったまま、動かなかった。
二人の会話が、風に乗って届く。
「……帰港後の予定は、もう決まっているの?」
レイコの声だった。
エディが答える。
「ええ。私はまず領事館ですね。」
少しだけ笑う気配。
「中佐になりましたから。報告義務があります。」
レイコは小さく息を吐く。
「そういえば、そうだったわね。」
しばらく沈黙が流れる。
それからエディが言った。
「もしイギリスへ行かれるなら、一度ご実家へ寄られてはいかがですか。」
レイコは少し驚いたようだった。
「実家?」
「ええ。ハワード提督もきっと安心されます。」
リヒトの胸がざわつく。
——イギリス。
その言葉が妙に重く響いた。
レイコは少し考えてから言う。
「……そうね。」
声は静かだった。
「一度帰るわ。今回の航海、きっとお父様たちも心配してると思うし。」
風が吹く。
エディは続けた。
「それなら、ちょうど良いですね。」
「ちょうど?」
「近々、私もハワード閣下へ報告に戻るつもりでした。」
レイコは少し笑う。
「じゃあ、一緒に帰国?」
「ええ。」
エディの声は穏やかだった。
「その方が安全です。」
「なんせ、あなたはとんでもない方向音痴ですから。」
「別で帰るとなると、他の駐在武官を付けなければならなくなります。」
しばらく沈黙が続いた。
レイコは海を見ているようだった。
「……その前に。」
小さく言う。
「サフィールに会いに行くわ。」
リヒトの胸が強く締めつけられる。
(サフィール……)
レイコは続ける。
「わざわざメッセージも届けてくれたし、きっと心配してるもの。」
エディは少し驚いたようだった。
「それがよろしいかと。」
「ええ。」
レイコの声は柔らかかった。
「なかなか会えない船だもの。」
その言葉は、どこか楽しそうだった。
エディは少し間を置く。
「ただ……」
そして静かに言った。
「リヒト様がいい顔をしないでしょうねぇ。」
レイコは少し笑う。
「ええ。」
その笑いは、どこか困ったようでもあった。
「きっと怒るわよね。」
風が強くなる。
レイコは静かに続けた。
「でも。」
「約束の場所で会わずに行くなんて、もっと嫌なの。」
その言葉を聞いた瞬間——
リヒトの胸に何かが落ちた。
(そこまで思い合っているなら……)
(なぜレジェンディアに乗ったんだ……)
重い、鉛のような感情だった。
いつかのように、やり場のない苛立ちが湧き上がってくる。
リヒトは胸元に手を当てた。
制服の内側。
指先が触れたのは、細いチェーンのネックレス。
リヒトはそれを強く握った。
レイコの声が、頭の奥に蘇る。
**********
「私はレジェンディアを愛しているわ。」
「愛しているのに、置いていけないの。」
「あなたも……船も。」
**********
リヒトは目を閉じた。
ネックレスを強く握る。
そして低く呟いた。
「……違う。」
だが——
その言葉の意味を、リヒト自身がまだ分かっていなかった。
レジェンディアは夜の海を進んでいる。
晴海まで、あと一日。
長い航海の終わりが近づくと、船の上には独特の空気が流れます。
仕事としての緊張は少しずつ解けていきますが、
代わりに、それぞれが次の場所へ向かう準備を始めます。
港に着けば、船はまた別々の世界へ戻っていく。
だからこそ、航海の終わりの夜は
少しだけ特別な時間になるのかもしれません。
さて、レジェンディアはいよいよ日本へ。
次回、晴海入港です。




