熊の来訪— 霧の海、優雅な駆け引き —
北太平洋を越え、レジェンディアはアリューシャン列島へと近づいていきます。
この海域は世界でも有数の濃霧地帯として知られ、
視界が数百メートル以下になることも珍しくありません。
そんな海の上で、突然聞こえてくる「プロペラの音」。
船乗りたちにとって、それは決して珍しいものではありません。
ただし——
それがロシアの爆撃機だった場合は、少し話が違います。
霧の海の上で、優雅な駆け引きが始まります。
霧はさらに濃くなっていた。
レジェンディアは白い壁の中を進んでいる。
視界はほとんどない。
窓の外には海があるはずだが、何も見えない。
頼れるものは、レーダーと計器だけだった。
ブリッジには静かな緊張が漂っている。
エディは窓際に立ち、海を見つめていた。
耳を澄ませる。
風の唸り。波が砕ける音。
そして、その奥に——
低く重い振動音。
遠くから響く、独特のプロペラ音。
エディの表情が変わった。
小さく呟く。
「……ツポレフ。」
振り向く。
「船長。」
「熊がいます。」
ブリッジの空気が一瞬凍った。
船長は即座に言った。
「社旗を掲げろ。」
通信士が振り向く。
「はい?」
「会社旗だ。」
「そして灯りをつけろ。」
ミカエラが首をかしげる。
「灯り?」
エディが静かに説明する。
「民間船とトラブルになれば、外交問題になります。」
「彼らもそれは避けたい。」
一瞬、わずかに笑う。
「ですから——」
「逆手に取ります。」
「人がいるように見せるんです。」
船長が頷いた。
「なるほど。」
エディは続ける。
「手の空いているクルーをデッキへ。」
「ゲストに扮してもらいましょう。」
アレックスが吹き出す。
「何それ。」
エディは真顔で言った。
「熊を見たら悲鳴をあげてください。」
「そして船内へ逃げる。」
ミカエラが笑う。
「つまり?」
エディは肩をすくめた。
「“うちのお客様が怯えておりますので、ご遠慮願えますか”」
「というわけです。」
船長はゆっくり頷いた。
「優雅にいなす。」
「いい作戦だ。」
命令が飛ぶ。
「クルー数名、デッキへ。」
「ゲスト役だ。」
数分後。
デッキでは即席の芝居が始まっていた。
ドレス。ジャケット。ワイングラス。
手の空いたクルーたちが、急ごしらえの“ゲスト”に変装する。
霧の海の上で、
まるで本物の船上パーティーのような光景だった。
ミカエラがニヤニヤする。
「うちのクルー、ハリウッド行けるんじゃない?」
その時だった。
重いエンジン音が急に大きくなる。
次の瞬間。
霧の上空を巨大な影が横切った。
白い霧の天井を裂くように、
灰色の巨体が姿を現す。
高度はおよそ千メートル。
四発プロペラ。
長い主翼。
ツポレフ。
ベア。
巨大な機体がレジェンディアの上空で旋回を始めた。
一度。
二度。
三度。
そのたびに、重いプロペラ音が霧の海に響く。
デッキの“ゲスト”たちが一斉に悲鳴をあげた。
「きゃあああ!」
「何あれ!」
ワイングラスが落ちる。
クルーたちは慌てて船内へ逃げ込む。
レジェンディアのマストには、
BMMの社旗が大きく翻っていた。
ベアはそれを確認するように、
高度を保ったまま旋回を続ける。
ブリッジでは誰も言葉を発しない。
エディだけが静かに呟いた。
「……さて。」
「紳士的にお願いしてみましょうか。」
霧の海の上で、
優雅な駆け引きが始まろうとしていた。
今回登場した「熊」は、ロシアの戦略爆撃機
**ツポレフ Tu-95(NATOコードネーム:Bear)**です。
1950年代に登場した非常に古い機体ですが、
現在でもロシア空軍の主力長距離爆撃機として運用されています。
最大の特徴は、
・巨大な四発ターボプロップエンジン
・独特のプロペラ音
・非常に長い航続距離
です。
この機体は世界各地の海域で哨戒飛行を行っており、
日本周辺や北太平洋でも確認されることがあります。
軍用機が民間船の近くを飛行すること自体は珍しいことではありませんが、
クルーズ船のように多くの乗客を乗せた船の場合、
万が一のトラブルは外交問題に発展する可能性があります。
そのため実際の船舶でも、
「民間船であること」を強くアピールする対応が取られることがあります。
今回エディが考えた作戦も、
そんな現実の海の知恵を少しだけヒントにしています。
次回、霧の海はさらに深くなります。
そして——
この海には、もう一つの「捕食者」が潜んでいます。




