その名はオーガスティア ―女王の船に乗る株主―
ようやく、ヒロインの“立場”が明らかになります。
昼間はただの株主に見えた彼女が、
実はどんな位置に立つ人物なのか。
リヒトにとっては、少し耳の痛い回かもしれません。
静かな夜の女王、その裏側をお楽しみください。
夜のマルセイユ港は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
サフィールはすでに出港し、岸壁にはレジェンディアだけが優雅に佇んでいる。
海面には灯りが砕け、金色の波紋がゆらゆらと揺れる。
祝祭の残り香だけを残し、港は女王の時間へと戻っていた。
出港前、最終乗船。
赤絨毯の先には船長。
その両脇に主要オフィサーが整列する。
リヒトもその一人だった。
夜は格式を示す時間だ。
華やかな昼とは違う、静かな本領。
「本日はご乗船、誠にありがとうございます」
船長の声が穏やかに響く。
重厚なスーツ、宝飾品の光、落ち着いた微笑。
株主たちが次々とタラップを上がっていく。
その中に――白いジャケットがあった。
昼間、サフィールの前に立っていた女。
今度はレジェンディアのタラップを、迷いなく上がってくる。
にこやかに。
優雅に。
一切の迷いなく。
船長が一歩前へ出る。
「オーガスティア様。お会いできて光栄です。本船でのお時間をどうぞお楽しみください」
自然な握手。
その瞬間、リヒトの背筋が凍りついた。
――オーガスティア?
名簿にあった名前だ。
レイコ・オーガスティア。
大株主ではない。
だが中位株主の中でも特異な存在と記されていた。
昼間、自分が軽く見ていた女。
彼女は一瞬だけ、オフィサーの列を見渡す。
だがリヒトに視線は止まらない。
ほんの形式的な会釈だけを残し、執事を伴って船内へ消えていく。
無駄のない足取り。
背筋に宿る静かな自信。
リヒトは思わず船長へ向き直った。
「キャプテン……今のは、レイコ・オーガスティア様でしょうか」
船長はわずかに眉を上げる。
「リストは共有したはずだぞ」
低い声が続く。
「レイコ・オーガスティア様。わが社では中位株主だが、彼女が所有するのはうちだけではない。外国船数社、国内最大手三社の株主でもある」
一拍。
「それくらいは、勉強しておけ」
叱責ではない。
淡々とした事実。
だが胸の奥に、じわりと熱が広がる。
昼間、自分は彼女を何だと思っていた?
白鳥に群がる、浮かれた客。
派手な演出に目を奪われる、軽い株主。
だが違う。
彼女は、選ぶ側の人間だった。
船を値踏みする側。
評価し、投じ、切ることもできる立場。
それでも――
だからこそ。
レジェンディアに振り向きもしなかったことが、なおさら引っかかる。
女王を軽んじたように見えたからだ。
いや。
本当に軽んじられたのは――
自分の未熟さではないのか。
視野の狭さ。
思い込み。
誇りの裏に潜む慢心。
夜の汽笛が、低く長く響いた。
出港準備完了。
タラップが外され、ゆっくりと岸壁が離れていく。
甲板に立つリヒトの視線は、無意識に上階の窓を探していた。
どこかにいるはずだ。
女王を値踏みする女が。
波が船体を叩く。
静かな航海が始まる。
だがリヒトの内側では、確実に何かが変わり始めていた。
レイコ・オーガスティア。
その名は、ただの乗客ではない。
女王の未来に関わる者。
そして――
自分の誇りを揺らす存在。
黒鳥はまだ、白鳥に視線を奪われている。
だが次に目を合わせるとき、
それはもう偶然ではない。
航路は、静かに交差し始めていた。
第三話をお読みいただき、ありがとうございます。
リヒトの中で、初めて価値観が揺れました。
彼女は“客”ではなく、
船を選び、評価する側の人間。
誇り高い航海士と、冷静な投資家。
立場が交差したとき、何が生まれるのか。
次回、いよいよ直接対話へ。
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